住田町上有住「根岸吉田家」について

岩手県気仙郡住田町(すみたちょう)上有住(かみありす)の「吉田家(根岸吉田家)」について。2016年8月6日〜7日、根岸吉田家伝来の古文書について、大学研究者による整理・調査が初めておこなわれた。
▽住田町の根岸吉田家は、岩手県指定有形文化財の古文書史料群「吉田家文書(吉田大肝入文書)」を伝える「気仙郡大肝入 吉田家(大庄屋吉田家)」*1陸前高田市気仙町今泉)のルーツという。

 →▼2016年8月上旬:住田町に関する記事 - atimus's blog http://atimus.hatenablog.jp/entry/2016/08/01/000000

 

▼今も残っている気仙大工の仕事(上有住・根岸吉田家)|けせん匠の里を紹介します。 http://www.epix.co.jp/kesendaiku/takuminosato/imamonokoru/sumita/negisi.html
▽「■上有住・根岸吉田家/ 住田町上有住字南田〔※宇南田の誤り〕57-1/ ・建築年:〔※空欄〕/ ・見学の可否:外部のみ可/ 屋根はアスファルト板で修復されたが、往時をしのぶ民家。」

▼〒029-2501 岩手県気仙郡住田町上有住宇南田57 - Google マップ https://goo.gl/maps/k2F5JNeA4WR2
岩手県気仙郡住田町上有住宇南田(字)57 の地図 - Yahoo!地図 http://yahoo.jp/G735jB

 

   ▼Web東海新報|6日から大学関係者が古文書調査、大肝入吉田家の“原点”/住田町〔2016年8月4日〕 https://tohkaishimpo.com/2016/08/04/122091/

▽「■上有住・根岸の歴史に光/ 住田町上有住の故・吉田サダさん宅(屋号・根岸)で〔8月〕6日(土)から、宮城学院女子大学宮城県仙台市=の平川新〔ひらかわ・あらた〕学長らによる調査が行われる。吉田家の初代当主は筑後政義〔吉田政義〕*2で、元和6年(1620)に仙台藩祖・伊達政宗から大肝入〔おおきもいり〕*3に任命され、今泉村陸前高田市気仙町)に移住。その後も〔上有住根岸には政義の次男・〔吉田〕彌治右衛門〔弥治右衛門〕がとどまり、庄屋*4として上有住の統治役を務めた。現地では政義時代の旧家から受け継がれた古文書の整理などが予定され、大肝入統治に至るまでの経緯、有住や気仙全体の歴史解明などが期待される。」

▽「田園風景が広がる上有住宇南田〔うなんだ〕地内に構え、ひときわ大きな寄棟屋根*5などから風格がただよう明治13年1880年〕建築の吉田家。旧家は近隣の根岸地内にあったが、学制発布後に土地と住まいを提供。明治6年〔1873年〕に上有住小学校となった。尋常小学校を経て、昭和22年〔1947年〕に同校〔上有住小学校〕根岸分校と改称。28年〔1953年〕に新校舎が完成したが、36年〔1961年〕分校廃止に至った。/ この旧家の初代当主が筑後政義関ケ原の戦い(1600年)で敗れた西軍の将・小西行長の子で*6、各地を転々として下有住中清水に居を構えたとされる*7根岸に移住し、庄屋として地域の統治役を果たしていた中、伊達政宗から気仙郡大肝入を任命される。/ 政義は数年間は根岸から出張勤務をしたのち、今泉に移住。根岸の邸宅には、次男の彌治右衛門がとどまった。」

▽「14代目にあたるサダさんは、平成22年〔2010年〕に93歳で死去。以降、定期的に娘の英子さん(72)が管理に訪れている。/ 今泉大肝入吉田家住宅大庄屋)*8は、東日本大震災で被災*9。平川氏らは調査研究を進める中で、ルーツとなる根岸にも注目。旧邸から受け継がれてきた豊富な古文書の存在が明らかになり、本格的な調査を行うことになった。/ 平川氏のほか東北大学災害科学国際研究所の蝦名(えびな)裕一准教授、学生5人が訪れる予定。〔8月〕6、7の2日間にわたり、所蔵されていた古文書の年代別に分ける整理などが行われる見込み。/ 生前、サダさんは〔根岸吉田家〕初代当主からの系譜を書き留めるなど、正確な歴史を後世に受け継ぎたい思いが強かったという。調査を前に、英子さんは「ご先祖さまにふれていただく機会に恵まれ、本当にありがたい」と涙ぐむ。/ 大学関係者による現地での本格的な資料整理・調査は初めてという。関ケ原の戦いで西軍の中心を務めた石田三成と気仙との関連、戦乱から藩政に落ち着くまでの動向、有住や気仙全体における産業・政治情勢など、調査成果が注目される。」 「▲ 住宅内に所蔵されている数多くの古文書=上有住」「平成28年8月4日付 7面」

 

▼Web東海新報|根岸に眠る歴史後世に、所蔵の古文書を仕分けと撮影/上有住〔2016年8月10日〕 https://tohkaishimpo.com/2016/08/10/123192/
▽「住田町上有住の故・吉田サダさん宅屋号・根岸)で〔8月〕6、7の両日、宮城学院女子大学宮城県仙台市=の平川新学長らによる古文書調査が行われた。吉田家の初代当主は筑後政義〔吉田政義〕で、元和6年(1620)に仙台藩祖・伊達政宗から大肝入に任命されたほか、根岸上有住の肝入として統治の拠点であり続けた。藩政時代の番所に関する資料や栗木鉄山の写真などが見つかり、今後の利活用のあり方が注目される。」

▽「調査に訪れたのは平川氏と東北大学災害科学国際研究所の蝦名(えびな)裕一准教授、同大学文学部の学生5人。家屋内に所蔵されていた古文書を江戸、明治、大正、昭和などと年代別に分類したほか、腐食が進まぬよう中性紙の封筒に入れた。/ 仙台藩南部藩との境部に位置する上有住。古文書調査では「境目番所」の絵図や、番所でどういった物資の出入りを調べるかなどをまとめた“マニュアル”資料も見つかった。藩境における取り締まりや統制のあり方を推察することができる。/ 明治以降の資料の中にも、注目すべきものが多い。明治時代に広まった感染症に関するまとめや、大正12年〔1923年〕9月1日に発生した関東大震災から約2週間後に送られ、当時の惨状を詳細に伝える手紙なども見つかった。各時代において、情報がどう伝わったのかを探る観点でも興味深い。/ また、明治41年〔1908年〕12月撮影の栗木沢製鉄所(世田米)全景写真や養蚕などに関する資料をはじめ、産業に関する歴史も眠る。平川氏は「丁寧に残されてきたもので、歴史解明につなげるためにも、まずはしっかり保存、整理したい」と語る。/ 資料一つひとつに向き合い、仕分けをしながら写真撮影などを行う作業は、学生5人が手分けをしながら地道に展開。文学部4年で国文学専修の柴田直美さん(21)は「古文書の内容を読み取り、一枚だけの資料なのか、何枚も続くのかなどを判断しながら進めた。自然の豊かさや、家の大きさにも驚いた。昔からの歴史が、これからも受け継がれてほしい」と話していた。」

▽「根岸の現家屋は、田園風景が広がる上有住宇南田地内に構え、大きな寄棟屋根が映える。14代目のサダさんは、平成22年〔2010年〕に93歳で死去。以降、定期的に娘の英子さん(72)が管理に訪れる。/ 旧家は近隣の根岸地内にあり、明治から大正、昭和前半は学校施設として活用。旧家の初代当主が筑後政義で、庄屋として地域の統治役を果たしていた中、伊達政宗から気仙郡大肝入を任命された。政義は数年間は根岸から出張勤務をしたのち、今泉に移住。根岸の邸宅は次男の彌治右衛門がとどまり、同家は長らく上有住の肝入の役割を果たし続けた。」 「▲ 古文書の撮影などにあたる大学生=上有住」「〔写真:〕所蔵資料には栗木沢製鉄所の全景写真も=同」「平成28年8月10日付 6面」

 

▼Web東海新報|気仙全体の歴史解明へ/上有住・根岸の古文書に光/住田〔2019年9月8日〕 https://tohkaishimpo.com/2019/09/08/263468/

 

 

▽▽参考:根岸吉田家(住田町上有住)について

 

▼吉田一族の歴史|一般財団法人 吉田記念今泉財団 http://ymif.jp/yoshida_family.html
▽「○藤原中臣鎌足*10 大化改新/ 〔※略〕/ ○藤原清衡→基衡→秀衡→泰衡/ ○藤原清綱 清衡の四男/ ○藤原太郎俊衡〔樋爪俊衡〕*11*12/ ○樋爪次郎兼衡*13 後に改め宇武次郎義衡 俊衡の次男/ ↓南部家*14に属し南部糠部郡樋爪・宇部を賜る*15/○宇武衛門綱衡/ 〔※7代を略す〕/ ○宇武弥次衛門義邦/ ○宇部弥次郎義徳 有故武字為部*16

▽「↓糠部群〔※糠部郡(ぬかのぶぐん)*17〕より千葉安房*18に従い上有住村根岸〔現 住田町〕に移り*19後に今泉村〔現 陸前高田市〕に移る 気仙郡泉村大肝入大庄吉田家〔を興す〕/○一世 吉田政義 宇部卯衛門〔※筑後政義と同一人〕 伊達政宗より筑後吉田姓を賜る*20 吉田家の高祖 元和六年〔1620年〕〜承応二年〔1653年〕三十四年間 大肝入」
▽「○二世 吉田宇右衛門*21 大原熊谷道久弟三十郎 大肝入/ ○三世 吉田宇右衛門重長 矢作因幡一男平八 大肝入/ ○四世 吉田宇右衛門 荒川村上市兵衛五男 大肝入/ ○五世 吉田宇右衛門 上有住村根岸吉田弥治右衛門〔彌治右衛門〕末子平八郎 大肝入*22/ 〔※略〕」

 

▼ゆかりの人物〔2007年5月8日〕 | MOSABA掲示板 | 410 http://6106.teacup.com/kodanoue/bbs/410
▽「■ゆかりの人物  投稿者:岩手路巡り  投稿日:2007年 5月 8日(火)14時37分54秒」
▽「テグムの会の皆様お元気ですか?/ ご無沙汰しておりました。/ さて、本日は昔々の気仙(住田)についてです。明治時代に吉田退蔵*23という方が岩手県議会議員をされていた時、気仙郡岩手県から宮城県にしようという運動を起こされました。この運動は残念(?)ながら稔らなかったのですが、この吉田氏の祖先が宇部伊右衛門〔※おそらく「宇部卯衛門=吉田政義=筑後政義」と同一人〕*24といいます。」
▽「〔吉田家初代・宇部伊右衛門は、〕仙台初代藩主伊達政宗公が気仙に初めて入った折り、その目にとまり、気仙川一体〔一帯〕の名主(大庄屋)〔気仙郡大肝入〕を仰せつけられました。伊達政宗といえばもともと”キョウユウ〔梟雄〕”と呼ばれるほどの凄腕の武将であることはもちろん誰でも知っている事で、時の天下人である豊臣秀吉徳川家康に睨まれながらも、滅亡をすることなく伊達家五十二万石を後世に残した人物です。/ 当時気仙地方は、大崎葛西の一揆葛西大崎一揆*25に加担したとして、大部分の地侍が滅ぼされたのですが、宇部伊右衛門はこの乱世をくぐり抜けて江戸時代まで滅亡を免れただけでも相当の人物だったのでしょう。さらに天下の禽雄伊達政宗に認められたこと、正宗が利用する気になったこと、このことからも余人に見えない何かを持っていたものと思われます。」
▽「私がこの宇部伊右衛門の子孫〔根岸〕吉田家当主 吉田サダ氏からこの話をうかがったのは、昭和五十三年〔1978年〕にサダ氏が ”歴代岩手県議会議員ゆかりの人々を招く会” で盛岡にこられた時だったはずですが、その時サダ氏からの逸話として、〔吉田家初代の〕宇部伊右衛門関ヶ原で敗れて斬首された小西摂津守行長の忘れ形見(性格〔正確〕にはその可能性が高い)であることを教えられました。関ヶ原で破れた小西行長は京の三条河原で石田三成とともに散ったわけですが、一子を家来とともに落ち延びさせ、その子は陸奥の国 宇部村(岩手県久慈市宇部町)に仮住まいして*26、さらに名を代えて気仙に入ってきたというのです。/ 事実か否かはサダ氏から確答をいただけませんでしたが、確かに当時の気仙の地侍が(伊達政宗の陰謀で)滅ぼされてゆく中で、滅亡せずにくぐり抜けてゆく器量は、上方で荒波を泳いできたようなただ者ではなかったのではないか、と考えられる節があります。/ 当時、サダ氏の住まわれていた上有住根岸屋敷上有住宇南田〕には、立派な槍〔やり〕が欄間に懸けられておりましたが、いまでも赤羽峠から下って行くと、根岸屋敷がはっきりと目に入り、その辺りが気仙川沿いで最も恵まれた地理的環境にあることがわかります。/ 大和魂さんがこの辺りで取れる米に”良質米”として着目されているのも、戦国時代から続くそんな何かがあるのかもしれません。/ ふと、住田ゆかりの人物について書きたくなりました。多分住田のヒトにもあまり知られていないのではないでしょうか?/ 最後に、世田米のお祭りの成功は好かったですね! 地元の皆様にとって、本当に楽しいひとときであることが感じられました。 これからもテグムの会の皆様のご多幸をお祈り致します。」

 

▼十五番札所 中清水観音堂 - 祈りの道 気仙三十三観音再興プロジェクト http://kesenkannon.jimdo.com/%E5%90%84%E9%9C%8A%E5%A0%B4%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E5%8D%81%E4%BA%94%E7%95%AA%E6%9C%AD%E6%89%80-%E4%B8%AD%E6%B8%85%E6%B0%B4%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%A0%82/
 →PDF:『気仙三十三観音 :郷土けせんを記録にとどめる写真集 Part 1』山田原三:案内者、こんの・のりお:撮影・解説文(共和印刷企画センター、2004年11月発行) http://kesenkannon.jimdo.com/app/download/6414130367/%E6%B0%97%E4%BB%99%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E8%A6%B3%E9%9F%B312-22.pdf#4
▽「■十五番札所付 古屋敷観音堂(ふるやしきかんのんどう)/ 気仙郡住田町下有住字高瀬/ p.37」 「■十五番札所 中清水観音 如意輪観世音菩薩/ 気仙郡住田町下有住字高瀬/ p.38」
▽「中清水観は、以前、古屋の沢〔こやのさわ〕なる場所にあり、「古屋敷観音〔こやしきかんのん〕」*27と呼ばれていました。しっかりした造りの観音堂で、実は、大坂城落城に際し、吉田家の始祖で、九州宇土城主*28だった 宇部伊右衛門直義〔※「宇部卯衛門(吉田政義)」と同一人か〕なる武将*29がこの地に落ち下り、肌身にしていた「水月観音像」*30を、御堂を建立して祀り伝えたものです。一説に、飛鳥時代の仏師 止利*31の作とも伝えられていましたが、現在は「如意輪観世音菩薩像」となり*32長桂寺に永久預け仏としてご本尊の右手に安座しています。/ なお、古屋の沢の観音堂は、当家〔吉田家〕の氏神だった月山神社の社殿となり、跡地には、小ぶりな御堂が置かれ、別誂えの子安観音像*33が祀られています。/ 吉田家には始祖から伝わる金剛鋳造仏*34「子安観音」もありましたが、明治の初め他者へ譲渡されてしまいました。宇部氏はキリシタンでしたから、この子安観音像はどこかマリアのおもかげを残していたといいます。/ なお、宇部直義は以後、伊達政宗に名馬献上等により、吉田筑後正義なる名*35を戴きました。」

▽参考:
▼十六番札所 長桂寺 - 祈りの道 気仙三十三観音再興プロジェクト http://kesenkannon.jimdo.com/%E5%90%84%E9%9C%8A%E5%A0%B4%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E5%8D%81%E5%85%AD%E7%95%AA%E6%9C%AD%E6%89%80-%E9%95%B7%E6%A1%82%E5%AF%BA/

▼史跡・名勝:玉桂と長桂寺 | 住田町 http://www.town.sumita.iwate.jp/kanko/siseki.html
▽「■玉桂と長桂寺(たまかつら と ちょうけいじ)/ 天文23年(1554年)一翁舜嶽大和尚により開基、近くの大きな桂の木にちなんで長桂寺と名付けられました。一度、落雷で倒れたものの根から数十本の新しい芽を伸ばし、遠くからは玉のように見えたので「玉桂」に。樹齢800年以上。」

▼南三陸滝見隊|長桂寺の巨樹たち〔2013/03/24〕 http://takimitai.blog.fc2.com/blog-entry-398.html

 

月山神社|住田町|岩手県神道青年会 http://www.jinjacho.jp/ganshinsei/sumitachou/621gassanjinja.html
▽「■月山神社/ ・御祭神: 月夜見命/ ・例祭日: 11月3日/ ・宮司名: 瀧本正徳/ ・鎮座地: 〒029-2502 気仙郡住田町下有住字高瀬228番地/ ・連絡先: 0192-46-3408/ ・由緒: 小西行長落胤吉田筑後正義〔※おそらく「吉田政義」と同一人〕が行長滅亡の後この地に遁居*36、一族の守護神として慶長年間(1596-1615)勧請すると口伝。記録がないので正確なことは不明。/ 明治二十年(1887)頃火災のため棟札なし。明治四十三、四年(1910-1911)頃、下有住村社となる。」

▽参考:
月山神社(岩手県) - 全国法人データベース https://www.houjin-db.com/ja/profile/2402705000133
▼いわて地元学実践フィールド 実例5:住田町下有住月山地区/地域の子どもたちの心に|いわて地元学 実例集〔岩手県地域振興部地域企画室〕 http://www.aiina.jp/environment.060331/kankyou_jimoto/jimoto/05jissen/index05.html

▼月山神楽〔住田町〕 | 全国観るなび 岩手県 (日本観光振興協会) http://www.nihon-kankou.or.jp/iwate/detail/03441be2220094144
▼月山鹿踊〔住田町〕 | 全国観るなび 住田町 (日本観光振興協会) http://www.nihon-kankou.or.jp/iwate/034410/detail/03441be2220094146

→▼写真ニュース:五年大祭、盛大に/下有住の月山神社〔2014/11/03〕|47NEWS(よんななニュース) http://www.47news.jp/photo/951666.php

 

▼吉田家文書|いわての文化情報大事典 http://www.bunka.pref.iwate.jp/ciss/bunkazai/detail/id/437
▽「■文化財情報 詳細/ 吉田家文書(よしだけもんじょ)/ ■指定種別: 〔岩手〕県指定/ ■種別: 古文書/ ■指定年月日: 1995年 4月 28日/ ■数量: 定留 95冊 定留頭書(目録)2冊 伊達政宗黒印状など24冊 計121冊 他に 文政期の気仙郡村絵図23点 幕末の藩主出馬宿絵図など6点 計29点/ ■所在地: 陸前高田市気仙町字町裏 陸前高田市図書館/ ■所有者: 吉田 裕/ ■保持団体: 〔※空欄〕/ ■管理団体: 〔※空欄〕/ ■ホームページ: 東日本大震災に伴うデータ損傷・データ復元のニュース http://current.ndl.go.jp/node/18834

▽「■概要: 吉田家は元和6年(1620)に仙台藩気仙郡上有住〔現 住田町〕より今泉村〔現 陸前高田市〕に移住したと伝えられている。当家伝来の「伊達政宗黒印状」(元和6年極月3日)や「気仙郡泉村風土記御用書出」(安永6年、1777)によると、元和6年〔1620年〕、吉田宇右衛門(筑後〔※吉田家初代・吉田政義と同一人〕*37が藩祖政宗によって気仙郡の大肝入に任命されている。」
▽「こうして吉田家が気仙郡大肝入に就任することになるが、特に明暦2年(1656)〜延宝3年(1675)〔矢作久右衛門〕と元禄7年(1694)〜宝永2年(1705)〔松坂十兵衛〕の両期間を除き、宝永2年以降は明治2年(1869)に至るまで連綿としてその職を世襲してきた。まさに気仙地方きっての名家であり、現在は「大庄」(明治3年〔1870年〕8月改称*38)と愛称されている。/ ところで、仙台藩の地方支配機構は郡奉行−代官−大肝入−肝入−となっており、村役人としての大肝入はほとんど世襲制であった。この大肝入は代官区内の肝入、検断を指揮し、主として租税の取りまとめと納入事務を司った。このほかでは肝入の進退を具申し、郡村の諸経費を割り付け、軽犯罪の処分、庶民犯罪者の下調べを行う権限をも有していた。一方、給料として藩より高5貫文の土地、あるいは年金5両が支給され、ほかに3両以内の補助金を区域内から徴収することが認められており、さらには年貢諸役の免除、苗字帯刀御免、絹紬着用御免などの特権が与えられていた。/ さて、大肝入を世襲して来た吉田家には、寛延3年(1750)から明治元年(1868)までの118年間分(このうち寛政11年、文化12年、天保元年の3カ年分を欠く)、合計95冊の「定留〔じょうどめ〕」がまとまって残っており、東山南方大肝入の白石家文書と共に双璧をなしている。しかも、このような伝存形態は全国的にみても稀である。」

▽参考:
気仙郡大肝入「吉田家」〔2011/1/26〕 ( 歴史 ) - 奥羽*温故知新 http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/27905977.html
▽「■気仙郡大肝入「吉田家」/岩手県陸前高田市/ あまり有名な話題ではありませんが、ここで、私が昔から気になっており、古文書講座に通い始めたきっかけになった「吉田家文書」を残す「吉田家」について語らせて頂きます。/ …マニアックな話題ですが、たくさんの古文書を残してくれた家です・・・。/ 吉田家は元和六年(1620)に仙台藩気仙郡上有住より今泉村〔現 陸前高田市〕に移住したと伝えられています。/ 当家伝来の「伊達政宗黒印状」(元和六年)や「気仙郡泉村風土記御用書出」(安永六年(1777))によると、元和六年、吉田宇右衛門(筑後が藩祖政宗によって気仙郡の大肝入に任命されて以来、明治二年(1869)までの間、10代にわたりその職を務めました家系です…。/ 〔岩手〕県指定の有形文化財「吉田家文書」は、吉田家に伝わる 121冊の古文書や 29点の絵図で、仙台藩の郡村支配、特に気仙地方の歴史をひもとき、究明していく上で欠くことのできない第一級の史料とされています。/ 〔※略〕」

 

▽▽上有住小学校根岸分校:

岩手県小学校の廃校一覧 - Wikipedia http://www.ammanu.edu.jo/wiki1/ja/articles/%E5%B2%A9/%E6%89%8B/%E7%9C%8C/%E5%B2%A9%E6%89%8B%E7%9C%8C%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E5%BB%83%E6%A0%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7.html
岩手県廃校一覧「沿岸広域振興局 大槌町・住田町」 http://chi-chanhp.net/hobby/Closedschool/Elementaryschool/engan/ootuchi/ootuchi.html
▽「■名称:住田町立上有住小学校根岸分校/ ・閉校:-/ ・統合:廃止/ ・現存施設:校舎(一部)/ ・地図:-/ ・写真:〔※2点〕/ ・備考:民間企業払下*39/ ・訪問年月:2012/10/31」

▼いわて県道ブログ:上家の分校?(住田町)〔2004年04月17日〕 http://blog.livedoor.jp/kendolife/archives/402545.html
▽「住田町の上有住から赤羽根峠へ向かう旧道。バスの回転場所跡があって、そこにアリス電子*40というのがありました。よくよく観察すると、明らかに学校跡ではありませんか。こんなとこにもあったのかという思いです。/ 一部分は当時そのままという感じです。「上小」という校章が残っていました。学校名が不明だったのが残念です。ちょっと調べてみましょう。」
▽〔コメント欄:〕「これ〔記事の写真〕は上有住小学校鳴木分校ですね、最盛期には100人を超える児童が在籍していたのですが、本校〔上有住小学校〕の複式学級を解消するために已む無く統合されました。/上有住小学校にはこれ以外にも中卒(なかぞね)根岸新田山に分校がありましたが、中卒は五葉小学校に独立、根岸〔根岸分校〕は統合後に大船渡農業〔岩手県立大船渡農業高等学校〕の分校へ*41、新田山は更地と化しました。/中卒分校は金ノ倉というところの集会所として現役で、根岸分校は福祉サービス施設の一部として講堂が残されています。/ Posted by 吉田 at 2005年01月20日 20:51」

 

▼平川新 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B7%9D%E6%96%B0
▼平川 新 - 研究者 - researchmap http://researchmap.jp/read0168154

東北大学 災害科学国際研究所 IRIDeS - International Research Institute of Disaster Science http://irides.tohoku.ac.jp/
▼蝦名 裕一 - 研究者 - researchmap http://researchmap.jp/read0155054/

*1:気仙郡大肝入 吉田家(大庄屋吉田家)」。気仙郡の大肝入として今泉村陸前高田市)に移った吉田家。以下、本項では「今泉吉田家」と略す。

*2:「吉田家の初代当主は筑後政義」。Web上には吉田家初代当主の名として他に、「吉田政義(宇部卯衛門)」、「宇部伊右衛門」、「宇部伊右衛門直義(吉田筑後正義)」、「吉田宇右衛門(筑後)」の表記が見える。後掲のWebページ参照。東海新報紙は一貫して「筑後政義」と表記している。表記揺れの原因、不詳。教示を乞う。

*3:気仙郡大肝入」。気仙郡の大肝入(おおきもいり)。伊達家(仙台藩)統治下における「大肝入」の職権については、「いわての文化情報大事典」に解説がある。 →▼吉田家文書|いわての文化情報大事典 http://www.bunka.pref.iwate.jp/ciss/bunkazai/detail/id/437 なお、肝入(きもいり)は「肝煎」とも記す。

*4:「庄屋として上有住の統治役を務めた」。“庄屋”についてWikipediaは、「庄屋(しょうや)・名主(なぬし)・肝煎〔肝入〕(きもいり)は、江戸時代の村役人である地方三役の一つ、郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長。身分は百姓。庄屋は主に西日本での呼称で、東日本では名主、東北・北陸地方では“肝煎〔肝入〕”と呼んだ。」とする。 →▼庄屋 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%B1%8B

*5:「寄棟屋根」。 →▼寄棟造 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E6%A3%9F%E9%80%A0

*6:「〔筑後政義は〕小西行長の子で」。吉田家初代当主の父を小西行長とする伝承があることがわかる。小西行長宇喜多直家に取り立てられて武士となり、のち豊臣秀吉の家臣。キリシタン大名関ヶ原の合戦に敗れ、斬首された。なお、Wikipediaには行長の子として「小西 宇右衛門」の名が見える。 →▼小西行長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7 →▼小西行長の部屋|宇土市デジタルミュージアム http://www.city.uto.kumamoto.jp/museum/09yukinaga/yukinaga.html

*7:「〔筑後政義は〕小西行長の子で、各地を転々として下有住〔の〕中清水に居を構えたとされる」。近似した記述が、後掲『気仙三十三観音 :郷土けせんを記録にとどめる写真集 Part1』(共和印刷企画センター、2004年)に見える。 →▼各霊場紹介 - 祈りの道 気仙三十三観音再興プロジェクト http://kesenkannon.jimdo.com/%E5%90%84%E9%9C%8A%E5%A0%B4%E7%B4%B9%E4%BB%8B/

*8:「今泉の大肝入吉田家住宅(大庄屋)」。今泉吉田家の“大肝入”から“大庄屋”への改称を、岩手県編纂の「いわての文化情報大事典」は、明治3年(1870年)8月とする。 →▼吉田家文書|いわての文化情報大事典 http://www.bunka.pref.iwate.jp/ciss/bunkazai/detail/id/437 また、佐々木勝宏「陸前高田市仙台藩気仙郡大肝入吉田家の文化財レスキュー」(2012年)は、今泉吉田家について、「明治3年(1870)以降、大肝入は大庄屋と改称された。「大庄屋」とは〔屋敷の〕主屋の呼称でもあり、吉田家の屋号ともなった」と記している。 →▼東北地方太平洋沖地震 被災文化財等救援委員会 平成23年度活動報告書:IV.被災各県団体報告編 http://www.tobunken.go.jp/japanese/rescue/report/report_h23/index_4.html

*9:「今泉の大肝入吉田家住宅は、東日本大震災で被災」。被災した「吉田家文書」(陸前高田市)は、国立国会図書館により修復作業がおこなわれた。 →▼岩手県指定有形文化財「吉田家文書」の修復が終了しました〔2014年11月10日〕|国立国会図書館 http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/preservation/coop/spt_yoshidake2.html →▼岩手日報東日本大震災ニュース|流失の吉田家住宅を仮想復元へ/陸前高田の県文化財〔2011.12.14〕 http://www.iwate-np.co.jp/311shinsai/sh201112/sh1112144.html

*10:吉田記念今泉財団の系図は、吉田家のルーツを、藤原鎌足から奥州藤原氏を経て現在に至るものとして描きだしている。同系図の末尾は、「〔今泉吉田家〕十五世吉田裕/ 藤原鎌足から四十二世代に当たる」と締めくくられる。

*11:「藤原太郎俊衡」。吉田家初代・吉田政義より12代前に記される藤原俊衡(樋爪俊衡)は、平泉奥州藤原氏の一族。「■樋爪俊衡 ひづめ-としひら/ ?-? 平安後期-鎌倉時代の武将。藤原清衡奥州藤原氏・初代当主〕の孫。藤原清綱の子。陸奥(むつ)斯波(しわ)郡〔紫波郡〕(岩手県) 樋爪(比爪)に館をもつ奥州藤原氏の一族。文治(ぶんじ)5年(1189)の源頼朝の奥州攻めで館に火をつけてにげたが, まもなく幕府軍に投降。ゆるされて頼朝から領地をみとめられた。通称は太郎。姓は比爪, 火爪ともかく。」という。 →▼樋爪俊衡(ひづめ としひら)とは - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%A8%8B%E7%88%AA%E4%BF%8A%E8%A1%A1-1103524 樋爪一族の子孫について、Wikipediaには次のようにある。「■〔奥州藤原氏の〕一族/ 〔藤原〕清衡の四男・藤原清綱(亘理権十郎)は〔※中略〕平泉へ移り その子の代には紫波郡日詰の “樋爪(比爪)館” に居を構え“樋爪氏”を名乗り“樋爪俊衡”〔=藤原太郎俊衡〕と称している。奥州合戦では平泉陥落後、樋爪氏は居館に火を放ち地下に潜伏したが、当主・“俊衡”らは陣ヶ岡の頼朝の陣に出頭し降伏した。頼朝の尋問に対し法華経を一心に唱え一言も発せず命を差し出したので、老齢のことでもありその態度を是とした頼朝は樋爪氏の所領を安堵した。しかし、その後歴史の表舞台から消えた〔※記録が残っていない、の意〕。子や弟も相模国他へ配流された。〔※略〕」。 →▼奥州藤原氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F#.E4.B8.80.E6.97.8F 樋爪一族について次のブログ記事も参照。 →▼樋爪一族〔2009/5/10〕 ( 歴史 )|奥羽*温故知新 http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/16457857.html →▼樋爪館跡〔2010/9/26〕 ( 歴史 )|奥羽*温故知新 http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/26783465.html また、樋爪一族の系図や「比爪館(樋爪館)」について、次のページ参看。 →▼比爪館に関係する文献|比爪館を考古学する|紫波埋蔵文化財 http://waraebisu.lolipop.jp/034.html

*12:樋爪俊衡(藤原太郎俊衡)の名は、その子・樋爪次郎兼衡とともに、「吾妻鏡」文治5年(1189 年)9月条に見える。その数条を挙げれば以下のとおり(※原文は漢文); 「〔文治5年〕9月4日 辛酉/ 〔源頼朝、〕志波郡〔紫波郡〕に着御す。而るに〔藤原〕泰衡親昵“俊衡”法師この事に驚き、当郡内 比爪の館を焼失し逐電す。奥方に赴くと。仍ってこれを追討せんが為、三浦の介義澄並びに義連・義村等を遣わしをはんぬ。〔※略〕」 「9月15日 壬申/ 樋爪の“太郎俊衡”入道並びに弟五郎季衡、降人として厨河に参る。“俊衡”子息三人(大田の冠者師衡・“次郎兼衡”・同河北の冠者忠衡)を具す。季衡子息一人(字新田の冠者経衡)を相具す。二品〔頼朝〕彼等を召し出しその躰を覧る。俊衡は齢すでに六旬〔60歳〕に及び、頭はまた繁霜を刷う。誠に老羸〔ろうるい〕の容貌、尤も御憐愍に足るなり。八田右衛門の尉知家に召し預けらる。知家これを相具し休所に帰る。而るに“俊衡”法華経を読誦するの外一言を発せず。知家 本より仏法を崇敬するの士なり。仍って随喜甚深なりと。」 「9月16日 癸酉/ 知家御前に参進し、“俊衡”入道経を転読する事を申す。二品〔頼朝〕往日よりこの経を持たしめ給うの間、罪名を定められず。本所(比爪)に安堵すべきの由下知せしめ給う。これ併しながら十羅刹の照鑑に優じ奉るの旨仰せ含めらると。」 →▼吾妻鏡 文治5年9月|吾妻鏡目録 http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118909.html ※『吾妻鏡』の原文(漢文)は、たとえば次のページを参看。 →▼吾妻鏡(九四)|明洗堂安海森的博客 http://blog.sina.com.cn/s/blog_4db18c430100c6en.html →▼吾妻鏡入門 漢文だけの頁:第一巻〜十巻|歴散加藤塾 http://adumakagami.web.fc2.com/aduma-kanbun1-10.html

*13:「樋爪次郎兼衡 後に改め宇武次郎義衡 〔藤原太郎〕俊衡の次男」。樋爪兼衡(初代・吉田政義より11代前にあたる)はのち「宇武義衡」を名乗ったと記す。

*14:「南部家」。

*15:「南部糠部郡〔ぬかのぶぐん〕樋爪・宇部村を賜る」。宇武衛門綱衡(樋爪兼衡(のち宇武次郎義衡)の子)が、臣属した南部家より「糠部郡樋爪・宇部村」を与えられた、と記す。「樋爪・宇部村」とある部分、不詳。南部家から「糠部郡の樋爪(地方)の宇部村」を与えられた、の意か? あるいは「糠部郡の樋爪と宇部村」を指すか? なお、樋爪俊衡が源頼朝本領安堵された所領・比爪(樋爪)について、前掲註の諸資料には「陸奥 斯波郡樋爪(比爪)」、「紫波郡日詰」、「志波郡比爪」と見え、郡名「糠部郡」は見えない。「樋爪館(比爪館)」(岩手県紫波町南日詰)について、参考Webページ。 →▼樋爪館 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E7%88%AA%E9%A4%A8 →▼赤石地区ひづめ館懇話会 http://homepage3.nifty.com/araebisu/hidumetati/hidume-t.indx.htm →▼樋爪館周辺概要 http://araebisu.la.coocan.jp/hidumetati/16/06new.html →▼比爪館〜紫波にあった平泉藤原氏の館〜|比爪館を考古学する|紫波埋蔵文化財 http://waraebisu.lolipop.jp/031.html

*16:宇部弥次郎義徳 有故武字為部〔故ありて“武”の字を“部”と為す〕」。初代・吉田政義の先代・宇部義徳が、苗字を“宇武”から“宇部”に改めたという。改めた理由は定かでないが、“宇部”表記は宇武(宇部)氏が領したという宇部村に由来するか。

*17:「糠部郡(ぬかのぶぐん)」は、現在の岩手県北部〜青森県東部を占めた行政区画という。 →▼糠部郡 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%A0%E9%83%A8%E9%83%A1

*18:「千葉安房守に従い」。当該系図では、吉田家初代は“千葉安房守”の家臣として上有住村に移住したとする。Webを検索すると、“千葉安房守”に該当しそうな人物として高田城主、米ヶ崎城主であった「千葉安房守広綱(浜田安房守広綱)」の名が見える。同一人物か、不詳。 →▼高田城 -陸奥の城ー http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/rikuzentakata/takata.html

*19:「糠部郡より〔※中略〕上有住村根岸に移り」。当該系図を遡ると、初代・吉田政義(宇部卯衛門)の10代前の先祖・宇武衛門綱衡に註して「南部家に属 し南部“糠部郡”樋爪・宇部村を賜る」と記し、綱衡が「“糠部郡”樋爪・宇部村」を与えられたとする(“糠部郡樋爪”、不詳)。 なお、系図はこの宇武綱衡の父を「樋爪次郎兼衡 後に改め宇武次郎義衡 俊衡の次男」、すなわち樋爪俊衡(藤原太郎俊衡)の次男とする。

*20:伊達政宗より筑後吉田姓を賜る」。政宗から“筑後吉田”の姓(苗字)を与えられた、とする。なお、後掲『気仙三十三観音 :郷土けせんを記録にとどめる写真集 Part 1』は、「宇部直義は以後、伊達政宗に〔※中略〕“吉田筑後”正義なる名を戴きました」と記し、下賜された苗字を「吉田筑後」とする。

*21:「二世 吉田宇右衛門 大原熊谷道久〔の〕弟三十郎 大肝入」。系図では初代・吉田政義の別名を宇部“卯衛門”と記し、第2代から第9代まで、今泉吉田家の歴代当主は吉田“宇右衛門”を名乗ったとする(第10代当主の名は「十世吉田伝之助尚庸」とある)。

*22:「五世 吉田宇右衛門 上有住村根岸吉田弥治右衛門〔の〕末子平八郎 大肝入」。今泉吉田家の第5代には、上有住村の根岸吉田家の弥治右衛門(彌治右衛門)の末の男子・平八郎が入り、家督を継いだとする。平八郎の父・“吉田弥治右衛門”が、初代・吉田政義の次男で根岸吉田家を継いだ“彌治右衛門”(前掲東海新報記事)と同一人物か、不詳。

*23:「明治時代に吉田退蔵という方が岩手県議会議員をされていた時」。吉田退蔵、Web上資料では事績不詳。教示を乞う。 (追補)吉田退蔵について次の記事に紹介あり。「さらに〔根岸吉田家〕12代目の退蔵は、〔岩手〕県議会議員などを務め、古文書収集などにも取り組んだ。」「一方、吉田退蔵は郷土史資料の収集・研究にも熱心で、明治期に県議としても活躍し、気仙における近代政治でも輝いた人物。川内〔淳史〕准教授は「大船渡港の開発など、気仙の近代化が進んだ中で、どのように関わっていたかなどが注目される」と語る。」 という。 →▼気仙全体の歴史解明へ/上有住・根岸の古文書に光/住田〔2019年9月8日〕|Web東海新報 https://tohkaishimpo.com/2019/09/08/263468/

*24:「吉田〔退蔵〕氏の祖先が宇部伊右衛門」。この聞き書きでは、吉田家初代の名を「宇部伊右衛門」とする。“伊右衛門”の名の出所、不詳。後掲『気仙三十三観音 :郷土けせんを記録にとどめる写真集 Part1』にも「宇部伊右衛門”直義(のち吉田筑後正義)」と「伊右衛門」の名が見える。なお、吉田記念今泉財団の系図では、吉田家初代・吉田政義の別名を「宇部“卯衛門”」と記し、2代目以降は歴代、吉田“宇右衛門”の名を継いだとする。(対して、根岸吉田家の当主が歴代「吉田“伊右衛門”」の名を継いでいた可能性はあるか?)

*25:「大崎葛西の一揆葛西大崎一揆〕」。 →▼葛西大崎一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%8F%86 →▼郷土歴史倶楽部(葛西大崎一揆)|郷土歴史探訪(宮城県編) http://www.page.sannet.ne.jp/mtamu/history1060.html 

*26:「その〔小西行長の〕子は陸奥の国 宇部村(岩手県久慈市宇部町)に仮住まいして」。吉田記念今泉財団の系図では、初代・吉田政義の10代前の先祖・宇武衛門綱衡(樋爪兼衡の子)について「南部家に属し南部糠部郡樋爪・宇部村を賜る」と註している。

*27:「中清水観音は、以前、古屋(こや)の沢なる場所にあり、「古屋敷(こやしき)観音」と呼ばれていました」。ページ見出しには「十五番札所付 古屋敷観音堂(ふるやしきかんのん)」とあり、“古屋敷”を「ふるやしき」と読ませる。

*28:「九州宇土城主」。宇土城(うとじょう。現 熊本県宇土市)は、小西行長天正17年(1589年)に築き、本拠とした城という。 →▼宇土城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9C%9F%E5%9F%8E →▼宇土城|日本のお城・世界のお城 http://www.takakurashoten.sakura.ne.jp/castle/kyushu/uto/uto.htm

*29:「九州 宇土城主だった宇部伊右衛門直義なる武将」。不詳。吉田家初代当主・吉田政義の元の名を「宇部直義」と記している。また、Web上では、“宇部直義”なる宇土城主、あるいは城代の記述は他に見当たらない(一般に宇土城は小西行長の居城とされる)。なお、吉田記念今泉財団の系図では、一世 吉田政義の先代「宇部弥次郎義徳」が、苗字を“宇武”から“宇部”に改めたとする。

*30:水月観音像」。“水月観音”は、「三十三観音の一。補陀落山(ふだらくせん)の水辺の岩上に座し、水面の月を眺めている姿の観音」(デジタル大辞泉)という。 →▼水月観音(スイゲツカンノン)とは|コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B0%B4%E6%9C%88%E8%A6%B3%E9%9F%B3-539669 また、別称に楊柳観音白衣観音などがあるという(「岩にもたれてくつろいだ姿勢をとる観音像。同様の姿は水墨画に多く、水月観音、楊柳(ようりゅう)観音、白衣(びゃくえ)観音などの名前がある」)。 →▼水月観音菩薩半跏像|北鎌倉 松岡山 東慶寺 http://www.tokeiji.com/heritage/suigetsu-kannon/

*31:「一説に、飛鳥時代の仏師 止利の作とも」。止利は、鞍作止利(くらつくりのとり)。 →▼鞍作止利 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%8D%E4%BD%9C%E6%AD%A2%E5%88%A9

*32:「現在は「如意輪観世音菩薩像」となり」。文意不詳。

*33:「子安観音像」。“子安観音”を、デジタル大辞泉では「1 安産や幼児の成長を守護するという観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)。/ 2 隠れキリシタンが礼拝した聖母像。」と解する。 →▼子安観音(コヤスカンノン)とは|コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AD%90%E5%AE%89%E8%A6%B3%E9%9F%B3-504982

*34:「金剛鋳造仏」。“金剛鋳造”、不詳。“金銅鋳造”の誤りか。

*35:宇部直義は以後、伊達政宗に〔※中略〕吉田筑後正義なる名を戴きました」。吉田家初代の名を他のWeb上文献はすべて「政義」とするが、ここでは「正義」と表記されている。また、政宗より与えられた苗字を「吉田筑後」としている。なお、前掲の吉田記念今泉財団の系図では「一世 吉田政義 宇部卯衛門 伊達政宗より“筑後吉田”姓を賜る」と記し、与えられた苗字を「筑後吉田」とする。

*36:小西行長落胤吉田筑後正義が行長滅亡の後この地に遁居」。内容は、前掲の『気仙三十三観音 :郷土けせんを記録にとどめる写真集 Part 1』の記述とほぼ重なる。

*37:「元和6年、吉田宇右衛門(筑後)が藩祖政宗によって気仙郡の大肝入に任命され」。吉田家初代の名を“吉田 宇右衛門(筑後)”とする。“宇右衛門”の名は、吉田記念今泉財団の系図に「一世 吉田政義 宇部“卯衛門”」とあるのに通じ、また同系図では今泉吉田家当主は第2代より歴代“吉田宇右衛門”を襲名している。

*38:「〔気仙郡大肝入を務めた今泉吉田家は、〕現在は「大庄屋」(明治3年8月改称)と愛称されている」。佐々木勝宏「陸前高田市仙台藩気仙郡大肝入吉田家の文化財レスキュー」(『東北地方太平洋沖地震 被災文化財等救援委員会 平成23年度活動報告書』)には、「明治3年(1870)以降、大肝入は大庄屋と改称された。「大庄屋」とは〔屋敷の〕主屋の呼称でもあり、吉田家の屋号ともなった」とある。 →▼http://www.tobunken.go.jp/japanese/rescue/report/report_h23/pdf/h23_4-2-4.pdf 明治3年8月に、中央政府もしくは盛岡県(岩手県の前身。明治5年1月8日に「岩手県」に改称される)によるなんらかの行政組織の改変、統一があったか。不詳。教示を乞う。

*39:「民間企業払下」。上有住小学校根岸分校の払い下げを受けたのは、縫製加工業を営む「有限会社アリス」(法人番号 7402702000016)か。写真の建物のファサードに「アリス」の文字が掲げられているのが見える。 →▼有限会社アリス(岩手県)|全国法人データベース https://www.houjin-db.com/ja/profile/7402702000016

*40:「アリス電子」。不詳。有限会社アリス精電(法人番号 5402702000018)を指すか。 →▼有限会社アリス精電(岩手県) - 全国法人データベース https://www.houjin-db.com/ja/profile/5402702000018 アリス精電の住所について、2007年の投稿日時を持つ次の記録がWeb上にある。「(有)アリス電子 0192-48-2881 気仙郡住田町上有住長者洞68」 →▼製造業を見つけて効率的に!|盛岡市二戸郡一戸町の電子部品・デバイス製造業2〔2007/08/07〕 http://seizougyou2.blog102.fc2.com/blog-entry-294.html

*41:「根岸は統合後に大船渡農業の分校へ」。上有住小学校根岸分校(1975年閉校)の校舎は、岩手県立大船渡農業高等学校の分校となったとする。不詳。