住田町の「山」(その3):北西部〜北部地域

岩手県気仙郡住田町(すみたちょう)の「山」「山岳」について(その3)。
▽住田町の山について、ブログ「あかりんの岩手低山奇行」さんの山行記録をキーにWeb上の情報をクリップする。

▽この(その3)エントリーには、住田町域の北西部〜北部に存する以下の山々を収める; 物見山(種山)夕日山(ゆうひやま)加労山(かろうやま)樺山松峰(まつみね)貞任山(さだとうやま)男火山(おんびやま)女火山(めんびやま)鷹取山(たかっとやま)

 →▼住田町の「山」(その0):もくじ - atimus's blog http://atimus.hatenablog.jp/entry/2016/09/13/000000

 →▼住田町の「山」(その1):西部〜南部地域 http://atimus.hatenablog.jp/entry/2016/09/13/010000
 →▼住田町の「山」(その2):中央部地域 http://atimus.hatenablog.jp/entry/2016/09/13/020000
 →▼住田町の「山」(その4):北東部〜東部地域 http://atimus.hatenablog.jp/entry/2016/09/13/040000

 

▼あかりんの岩手低山奇行|山一覧のページ:住田町 http://akarin-yama.at.webry.info/201307/article_25.html

 

 

物見山(ものみやま)/種山(たねやま) 869.9m

▼〔地図:〕▼物見山 - 奥州市・住田町世田米/山:マピオン電話帳 http://www.mapion.co.jp/phonebook/M07003/03215/L0583502/
▼〔航空写真:〕Googleマップ:航空写真|物見山(住田町) https://goo.gl/maps/2mmUSDNbHSr
▼〔地形図:〕地理院地図|物見山(種山) 869.9m(住田町) 
http://maps.gsi.go.jp/#15/39.201016/141.401660/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

▼物見山(種山) 870.6m 2010年7月25日 2011年8月20日|あかりんの岩手低山奇行 http://akarin-yama.at.webry.info/201111/article_45.html

 

 

夕日山(ゆうひやま*1) 745.3m

▽夕日山(地理院地図 標高745.3m)。山頂に三等三角点「夕日山(ユウヒヤマ)」745.29mがある*2。住田町の西北域。遠野市との境界。東斜面に、荷沢峠(国道107号)を挟んで加労山。西に種山高原(物見山)、北西に丸森山(遠野市)。西麓にアヅ沢(遠野市)が北流する。なお、江戸期の史料に見える「赤坂山」を夕日山に比定する説もある。

▼〔地図:〕夕日山 - 遠野市・住田町世田米/山:マピオン電話帳 http://www.mapion.co.jp/phonebook/M07003/03208/L0584816/
▼〔航空写真:〕Googleマップ:航空写真|夕日山 https://goo.gl/maps/LAGLtrbDF142
▼〔地形図:〕地理院地図|夕日山 745.3m(住田町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.199286/141.442516/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

▼〔五万分一地形図「人首」(明治期?):〕1:50,000 chikeizu | Stanford Digital Repository https://purl.stanford.edu/vy114wv0302

 

▼夕日山 745.9m 2012年5月20日|あかりんの岩手低山奇行 http://akarin-yama.at.webry.info/201205/article_38.html
▽「名前に惹かれて行ってみたのに・・・という山でした。/ 夕日山の西側、標高720m付近まで〔北方から〕林道が通っています。この夕日山林道*3は、車も歩行者も許可なく通行禁止〔国有林〕となっています。〔※略〕/ 山頂に最も近い場所から、ひたすら藪をこいで山頂に。所要時間13分。展望もなく、夕日山という名前が恨めしいところです。/ 青白プレートとILP*4の〔山頂標識〕プレートがありました。ILPの方はどのコースから登られたのでしょうね。/ これまでの目撃結果からは、藪山集団〔薮山登山家集団〕*5のプレートは、判官山やマネトコ山〔岩手県久慈市〕、オーヅ岳〔岩手県宮古市〕など、さすがと感心する深い藪山にも設置されていますが、ILPのプレートは車道から比較的近い山が大部分であるような印象です。/ 山頂に三角点〔三等三角点・夕日山〕がありましたが、10数m離れたところにも三角点がありました*6。なぜなのでしょう。/ 〔※略〕」

▼夕日山〔2012/06/16〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201206/article_3.html
▽「■夕日山/ ・山行日 2012年6月12日(火)霧雨/ ・所在地 岩手県遠野市、住田町境界/ ・標高 745.9m/ あかりんさんのブログで、夕日山の記事に気になる標石写真が載っている*7。確認のために夕日山へ向かう。〔北方の〕丸森山〔遠野市小友町〕を下山後、国道107号を迂回して遠野市小友町から〔西へ向かい〕夕日山の北側を通る林道に入る予定だった*8。しかし丸森山から〔南東の〕夕日山方面へ続く林道*9は、路面状態が良い。夕日山へ向かうには、こちらの林道の方が近道になる。通り抜けが出来なければ引き返せば良い。時間はたっぷりあるから林道を進んでみる。/〔※略〕」
▽「10:41分 夕日山山頂到着/ 三等三角点〔点名:夕日山〕の山頂に到着。〔山頂標識〕プレートは青白とILPの二枚。次は目的の標石を探す。三角点周囲のササ藪をかき分けて探しまわる。必ず有るはずの標石、40分ほど探し回るが見つからない。こうなると三角点の近くではなさそう。登って来たルートを引き返しながらササ藪の中を探す。そして三角点手前のピークまで戻ると標石があった。/〔※略〕/ 柱石〔標石〕の側面に御料、三角の文字が見えている。御料局三角点*10発見!裏面には三等の文字。四面には保護石も残っている。柱石の頭には苔がへばりついている。ササ藪の中の標石は保存状態が良い。文字がはっきり読み取れる。頭上の枝には古い赤布が付いている。周囲のササを刈り払って枝に赤テープを付ける。/ コンパスで確認すると、〔柱石の〕北面に御料局三角点、南面に三等の文字。御料局三角点を見るのはこれで7本目になるが、多くは南面に御料局三角点と刻まれている。柱石の方角はほぼ正確に南北を向いているから、意識的に文字面を北にしている。夕日山山頂の三等三角点〔点名:夕日山〕も同じく文字が北面に刻まれている。御料局三角点の方が〔山頂の三等三角点よりも〕早い時期に埋設されているはずだから、御料局三角点に合わせたものかもしれない。/ 周囲の三等三角点が同じ測量隊によって埋設されたものだとすると、丸森山の三等三角点〔点名:石森山〕の文字が北面に刻まれていた*11訳もうなずける。/ しかし物見山〔種山〕北隣りの大森山〔奥州市江刺区〕*12にも三等三角点〔点名:大森山〕と〔古い〕主三角点*13があるが、主三角点は北面に主三角点の文字〔、南面には「山」の文字〕、〔現在の〕三等三角点は南面に三等三角点と刻まれている*14から、この辺りの事は確定できない。/ 11:40分 下山する。この後は種山高原にある三等三角点・点名・建石*15に立ち寄ってみる。土塁脇の三角点だから何か有るかも・・と期待したが何もなかった。/〔※略〕」

▼夕日山登頂記その1〔2010年12月13日〕 : 山猫を探す人II http://okenamay.exblog.jp/23094947/
▽「晩秋の絶好の登山日和だったのに時間切れで登れなかった夕日山。あきらめきれずに翌日再チャレンジした。天候はどんより曇りで風強し。気温はちょっと肌寒いくらい。/ 辰砂山林道*16をいけそうなところまでクルマで進み、山猫の勘で最後のUターン場所と思われるところでクルマを捨てた。(これは大正解だった。)/ 深い谷を隔てた向かいの山は独標734m峰*17/ 林道は大きく迂回して向かいの山肌を通っている。が、そこまで行かずに適当なところで林道をはずれ、尾根を目指す。/〔※略〕/ そして地図上にも記されている土塁に行き当たった。これを南へ下れば第一目標地点に辿りつく。しかし悪臭はさらに強くなってきた。/ 地図とおりに土塁は南から西に方向転換。/ 周囲の地形を注意深く観察する。/ うん、間違いなさそうだ。/ 此処を遠野市最南端〔住田町との境界〕と認定致します。しかし、最南端の地はなんとも肥やし臭いところよのう・・・・・(後日、地図で確認したら近くに豚舎らしき施設があった。さもありなん。) さて、そしたら第2目標を目指しましょうかね。/ と臆面もなく引っ張って・・・つづく」

▼夕日山登頂記その2〔2010年12月14日〕 : 山猫を探す人II http://okenamay.exblog.jp/23094948/
▽「遠野市最南端を制したワタクシは北に進路をとって夕日山を目指した。地図上では山道があるように記されているが、うっすらと道のような痕跡があるだけで しかも、そいつは夕日山への登りが始まらないうちにフェードアウトしてしまった。やれやれ・・・・・/ しかし安心されよ。最強の道標〔※土塁を指すか〕がずっと続いているのだ。/ これに沿って歩けば、楽勝で夕日山に着ける。/〔※略〕/ この辺りが一番の高みなのだが、ご覧の通りの背丈ほどの笹薮に三角点捜索を阻まれる。/ 5分ほど藪を漕ぎ続けたが三角点は見つからず天を仰ぐ。/いつ雨粒が落ちてきてもおかしくない天候なので、泣く泣く撤収に移る。/ 途中ちょっとした勘違いからあらぬ方向に下りそうになったが、方向修正し、無事に〔目印である〕焦げた木を発見できた。/〔※略〕/ はい、では地図でルートのおさらい*18と、コースタイムです。/ 〔※登頂ルート地図画像〕コースタイム/ 登山日:2010年11月22日 天候 くもり/ 独標738m南東 辰砂山林道上(675m)10:49 - 11:02稜線取付地点(678m)11:02 - 11:22焦げた木(730m)11:22 - 11:25防火土塁直角部(733m)11:25 - 11:30遠野市最南端(728m)11:33 - 12:07夕日山(745.9m)のあたりw12:12 - 12:37焦げた木(730m)12:37 - 12:53稜線取付地点(678m)12:53 - 13:05独標738m南東 辰砂山林道上(675m)/ 悪臭を放つ山域、凶暴な笹薮、延々と続く土塁・・・・・遠野市最南端を訪ねようなどと思わなければ、絶対に登らない山ですね。」

 

▽参考:(夕日山)
▼【盛街道】 藩境塚|いわての街道(岩手県) http://www.bunka.pref.iwate.jp/seikatsu/kaidou/data/sakari08.html
▽「種山七里塚*19から南に物見山を迂回しながら〔旧 盛街道を〕行くと仙台領〔伊達領〕と盛岡領〔南部領〕の藩境(気仙〔気仙郡*20上閉伊郡〔※現在の遠野市釜石市を含む地域〕の群境〔※郡境〕)に入ります。ここには藩境塚があり*21*22、「世田米村元禄絵図」(元禄12・1699年)*23によると夕日山の南に記されています。絵図にはこの道の他に姥石峠*24越えが描かれて「江刺市史2」には幹線・人首道(気仙道)として人首〔ひとかべ〕・木細工(きざいく)・姥石〔うばいし〕・世田米のルートを上げています。その途中の大股〔世田米〕には、種山の豊富な木材資源を背景に明治末から大正中期に開発された栗木鉄山跡(〔岩手〕県指定遺跡)*25があります。」

▼盛街道|高倉淳の宮城郷土史 http://takakura.fd531.com/sakarikaidou.htm
▽「〔※略〕/ 盛街道は、人首町〔奥州市江刺区米里〕の南端で右折して人首川を渡り滝壺に出ます。途中に年号不明の追分石「向而 右ハ山みちいでかい道 左東山けせん道〔気仙道〕」と刻まれており、長下には一里塚、古碑群がありました。滝壺から〔南東の〕二股まではほぼ〔岩手〕県道〔8号 水沢米里線〕と重なって進み、二股からはは人首川の支流山本川をさかのぼり〔東の〕種山の七里塚に向かいます。/ 種山の七里塚のある付近一帯は草原で、標高870mの物見山の大岩〔モナドノックス〕が見え、仙台領と南部領の境になっています。「種山七里塚」は、左右二基とも現存しています。塚の高さ1,7mと1,5mで、両塚の間隔は7mです。ここからは物見山の南麓を迂回して気仙郡〔※現在の住田町、陸前高田市、大船渡市〕に入ります。/ 旧道〔旧盛街道〕は尾根つたいに藩境を進み、夕日山の南800m付近に境塚〔藩境塚〕があります。続いて小股川と仙能沢〔千能沢〕にはさまれた山*26の稜線を下ると畷畑(ウネハタ)〔住田町世田米〕で国道107号に出合います。路傍に文政10年(1827)の「妙心禅尼」という墓標が寂しく立っていました。ここからは小股川に沿って下り、大股川と合流する所に小股集落があります。/ 〔※略〕」 ※旧盛街道の経路図あり。

▼藩境物語・小友金山(伊達側から)〔2007-06-20〕 - 「じぇんごたれ」遠野徒然草 http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/b48481fcd51cd5d5c617bd826cfc392c
▽「■藩境と蛭子館金山/ 気仙五金山の一つといわれる蛭子館金山*27は、南部、伊達両藩〔盛岡藩仙台藩〕の境にあった。/ 寛永元年(1624)小股紺野内膳*28の代に南部と伊達藩の境、夕日山の麓に蛭子館金山を採掘、南部領の赤坂金山*29まで越境しながら採掘していたと思われ、長い間紛争が絶えなかった。/ 寛永18年〔1641年〕、両藩の役人が領界を検分、申し合わせによりようやく藩境が確定した。/ 金山はその後から明治までの採掘状況は、記録がないので知ることはできないが明治末期の記録や、絵図面を見ると、経営面積は、約15万坪といわれ、坑道、小屋の所在地等からその規模を知ることができる。/ 住田町」 ※リンク先掲載、住田町による現地説明板写真より書き起こし。

▼(二)金山サミットin陸前高田:リレートーク(2)|協議会(活動)|岩手県陸前高田市 玉山金山 http://www.tamayama-kinzan.com/03-meeting/02.html
→▼PDF:金山サミット:リレートーク(2) http://www.tamayama-kinzan.com/03-meeting/images/03-02-04.pdf#page=11
▽「これ〔※地図写真〕が蛭子館金山の周辺の略図ということでございます。ここが国道107号線です。この辺が荷沢峠というところになります。ここが夕日山で、旧盛街道、平安末期の開設といわれますが、昔の本道路はこのところになります。ここから分かれて赤坂峠〔※国道107号の夕日山側に示されている〕を越えて小友の方へ、〔また、〕樺山峠〔※国道107号の貞任山側に示されている〕を越えて樋の土〔※「火の土」の誤植か〕の方へ行くと、ちょうどここが〔仙台藩盛岡藩の〕藩境ということになります。この辺一帯が蛭子館金山ということで15,000坪といわれております。約五〇ヘクタール、そういう規模のところでございます。/ 金山の歴史ということでお話します。文献等ではっきりしているのは、世田米の小股館家の二代目紺野内膳という方が、元和年間〔1615-1624〕に南部〔盛岡藩〕との境赤坂山というところに金山を見つけたといわれております。また同じく南部との境赤坂に辰砂山を発見したというのが始まりといわれております。ただこれについては、二つの説が出てますので、文献で『吉田大肝入の文書』〔吉田家文書〕については、弘化二年(一八四五)というふうにも見えています。いずれこの時代に発見されたということです。しかしその場所が南部の領域であるという異論が出て、当時、領地争いはご存知のとおりご法度です。いかにして採掘を始めたらよいか、内膳は寛永元年〔1624年〕から仙台に年間にして五~六回出張し、時には伊達政宗公と会って用意周到な計画のもとに採掘が始まったという事でございます。/〔※略〕」」

▼Vol.25「胆江地区の川紀行」|胆沢ダム工事事務所 http://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_25/vol25_1.htm

 

 

加労山(かろうやま*30) 729.6m

▽加労山(地理院地図 標高729.6m)。山頂に三等三角点「加労山(かろうやま)」729.59mがある*31。住田町の北域。西に、遠野市へ抜ける国道107号を挟んで夕日山。東に、火の土川、横川。北東に火の土川、横川を挟んで女火山、北北東に男火山。北隣に貞任山。西北に加労沢が発して南西に流れて小股川に合流、国道107号に並行して南流する。また、南西には猫ノ沢(ネコ沢)が源流して小股川に合流。

▼〔地図:〕加労山 - 気仙郡住田町下有住/山:マピオン電話帳 http://www.mapion.co.jp/phonebook/M07003/03441/L0570682/
▼〔航空写真:〕Googleマップ:航空写真|加労山(住田町) https://goo.gl/maps/r3EiZ8KaEzG2
▼〔地形図:〕地理院地図|加労山 729.6m(住田町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.193433/141.486418/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

 

▼加労山 730.3m 2012年6月3日 あかりんの岩手低山奇行 http://akarin-yama.at.webry.info/201206/article_2.html
▽「〔※略〕/ 国道107号線荷沢峠から加労山の北側を通る林道〔樺山林道〕*32は、一般車両通行禁止(国有林)になっていました。〔※略〕 夕日山国有林でしたので、この一帯は国有林なのでしょうか。/ 途中で〔南へ〕分岐する加労山方面に向かう道(地図では破線)*33は終点まで走ることができました。ここから山頂方向に作業道があったので歩きました。途中からは山頂に向かって林間を歩きました。4時36分に出発し、7分で山頂に到着しました。/ 〔山頂に〕展望はなく、三角点〔三等三角点・加労山〕、ILPのプレート、青白プレートがありました。ILPの方々が、どのルートを通ったのか、夕日山と同様に知りたいところです。/ 検索すると、「新ハイキング」という雑誌の2010年9月号*34に、「岩手県 加労山、霞露ケ岳、加呂ノ森」という紀行文があるようです。「かろ」にちなんで登ったと思われますが、普通のハイキングコースではない山です。/〔※略〕」

▼加労山〔2015/11/03〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201511/article_2.html
▽「■加労山/ ・山行日  2015年10月30日(金)曇り時々雨/ ・所在地 岩手県住田町/ ・標高 730.3m/ 樺山を下山後、もしかしたら宮標石*35が有るかも・・と期待して加労山へ向かう。荷沢峠から〔住田町下有住の〕奥火の土〔おくひのつち〕へ向かう林道〔樺山林道・火の土林道〕*36から、加労山方面へ林道が分かれている。林道分岐付近は伐採した木材の集積地になっていて、大型トラックが木材搬出作業を行っている。加労山へ向かう林道へ入ってしまえばもう安心。こちらの林道では搬出作業をしていない。/〔※略〕/ 13:31分 加労山山頂到着/ わずかな時間で山頂に到着する。苔に覆われた三等三角点〔点名・加労山〕を確認。〔山頂標識〕プレートはILPと青白の二枚。木々に囲まれていて視界は開けない。笹薮をかき分けて標石探しをしてみる。しかし何もみつからない。見出標〔みだしひょう。境界見出標〕も見当たらない。/ 山頂を下山後、北側の738mピーク*37も確認してみる。しかしこちらにも何もなかった。/〔※略〕」

 

 

樺山(かばやま*38*39 808.3m

▽樺山(地理院地図 標高808.3m)。荷沢峠の北東にある峰。同峰ピークの三等三角点「樺阪峠(かばさかとうげ)」808.27m*40の点の記に山名「樺山」と記載がある*41。住田町の北西域。南西すぐに荷沢峠(国道107号)、その向こうに夕日山。北北東に松峰、貞任山へと連なる。東に女火山、その北に男火山。南は、加労沢を挟んで加労山。松峰との間に峠道「樺坂峠」を擁する可能性が高い*42。(なお、住田町世田米川口地区に別の樺山がある*43。)

▼〔航空写真:〕Googleマップ:航空写真|樺山(住田町) https://goo.gl/maps/CXo9hLLuCiM2
▼〔地形図:〕地理院地図|樺山 808.3m(住田町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.210493/141.472685/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

 

▼樺山の宮標石〔2015/11/02〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201511/article_1.html
▽「■樺山/ ・山行日 2015年10月30日(金)曇り時々雨/ ・所在地 岩手県遠野市、住田町境界/ ・標高 808.3m/ 地図上では無名の三等三角点ピークの点の記に、気になる標石が記載されている。確認のために登ってみることにする。三角点〔点名:樺阪峠〕の点の記には、山名が樺山*44になっている。/ ↓〔北方の〕住田牧場〔貞任山南斜面〕*45から樺山を眺める〔※写真〕/ 遠野市から国道107号を〔南下して〕住田町へ向かう。荷沢峠〔の遠野側〕から東へ向かう林道〔広域基幹林道土室線〕*46へ進む。最終民家を過ぎると砂利道になる。路面路肩ともに良好。国道107号から約2.1km進んだカーブの路肩に車を止めて出発する。/〔※略〕」
▽「11:31分 樺山山頂到着/ 腰高の笹藪に覆われた三角点ピークに到着。ササ藪の中に白い柱石が見える。四隅を切り落としてあるから宮標石に違いない、御料局三角点発見!/ 点の記に載っている標石は、期待どおりの御料局三角点だった。等級は三等。南面に御料局、北面に等級が刻まれている。柱石頭には苔が張り付いている。周囲のササを刈払おう・・・と思ったが止めておく。柱石の風化が進んでいて、文字面の苔を落とそうとすると石の表面が削れてくる。これ以上風化が進むと文字が消えてしまうだろう。/ できるだけ日差しが当たらないように、柱石頭の苔も写真を撮った後元通りに乗せておく。/〔※略〕/ 〔樺山の〕三等三角点〔点名:樺阪峠〕は落ち葉に埋もれていた。保護石は大が二個、小が二個、標石から少し離れている。等級は三等。プレートやテープなどは当然のこと見当たらない。/ 雨が降り出して山頂からの展望はない。雑木に囲まれているから殆ど展望はなさそう。しかし木々が無ければ、西隣の御料局三角点のある夕日山*47は見えるだろう。/ ↓三等三角点〔※写真〕 /樺山から下山途中、市町境〔遠野市・住田町境界〕の土塁の手前に見出標があった。山頂側に貼り付けてあったので往路では気がつかなかった。逆さまになった見出標、消えかかった番号は276が読み取れる。見出標から山頂方向へ約2m、地面が盛り上がった場所を足で探ると、宮標石〔宮界標〕*48が現れた。南面に「界甲二七六」北面には宮マークが刻まれている。予想どおりここは界甲エリア*49御料地〔皇室財産〕で間違いなし。こうなると南隣の加労山が気になってくる。この後登ってみることにする。/〔※略〕」

 

▽参考:(樺山)
▼古戦場・樺坂峠〔2006-12-01〕 - 「じぇんごたれ」遠野徒然草 http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/a35f63443fd6fd111725017f23e80014
▽「〔※略〕/ さて「古戦場・樺坂峠」・・・・/ 樺坂峠といえば貞任高原や琴畑牧場方面の大槌町や川井村との境目付近の峠を思い浮かべる方々も多いと思いますが、遠野郷土史通では、気仙郡遠野市との境、すなわち小友〔遠野市〕と住田町との境の樺坂峠のことを指しております。/ 小友町荷沢の標柱〔※写真:「荷沢峠」「樺坂峠古戦場跡」の標柱が並んでいる〕/ 標柱が示めされているだけでは具体的にどの場所を指すのかはわからない、そこで山猫となって、目星をつけていた林道に愛車である濁酒特区スッケ号を密かに侵入させました。/ 通行禁止区域〔の看板〕と共に〔標柱があり〕樺山〔「樺山 林道入口」〕の文字が・・・・樺坂・・樺山・・何かしら雰囲気が近い・・・。〔※写真〕/〔※略〕/ さて峠道といいますか林道をかなり奥深く侵入・・・山も深くなり、合戦が行なわれたような雰囲気は掴めない、カーナビでは道無きところを私は走っていることになりますが、この先には住田牧場〔※貞任山の南斜面にある〕の文字が・・・そうしますと〔貞任山の東側にある〕蕨峠も近くということになりますが、ここで断念・・・広い箇所を見つけてUターン。/〔※略〕」

▽〔コメント欄:〕「■樺坂古戦場 (〔投稿者:〕とらねこ〔※ブログ主〕)/2006-12-01 19:14:58/ aboutさん、こんばんは。/ 実は、荷沢峠を〔住田側に〕下って左に入る林道〔樺山林道〕があるらしいですが、その行き着く先は住田の火の土集落・・・車で行けるかどうかは未確認ですが、こちらの山道の頂上が〔古戦場となった〕樺坂峠ではないかと思ってます。/ 気仙勢は火の土を通過して樺坂峠へ至り、退却の際も火の土の日門舘*50にて敗残の兵をまとめたともいわれますから、どうやら今回の私の探訪は若干場所がズレていたかもしれません。/ 古老達が子供の頃は館跡は木々がなく、遺構も露になっていたそうで、舘が機能していた時代も木々がなかったものと思います。/ 私は樺坂峠に当時の迎撃の際の工作した遺構跡とかが残されているのでは、現地に標柱があるりでは・・の期待のみで出かけましたが、今回は失敗です。またトライいたします。/〔※略〕」
▽〔コメント欄:〕「■辰砂山 (〔投稿者:〕numako)/2006-12-02 20:11:27/ 〔ブログ記事中の〕おまけ前の画像は〔住田町の〕辰砂山開拓地〔しんさやまかいたくち〕ですね。ここから奥火の土〔住田町下有住〕へ抜ける林道〔樺山林道、火の土林道〕は通ったことありますが…/ 樺坂峠は〔北方の〕堂場沢遠野市*51から〔南の〕奥火の土へ抜ける鞍部だと思いますが(地形図の717m地点)*52、稜線上にも直角に点線が通ってますね。そっちが樺山林道なのかな?」
▽〔コメント欄:〕「■あってたのかな (〔投稿者:〕とらねこ〔※ブログ主〕)/2006-12-02 22:27:27/ numakoさん/ 奥火の土に出た・・・そうしますと今回のルートはあっていたことになりますかね。/ でも樺坂古戦場の近くということで、雰囲気はそれなりに体験できたということにしたいと思います。」
▽〔コメント欄:〕「■そうですたか (〔投稿者:〕numako)/2006-12-03 18:25:12/ ありゃそうか、辰砂山開拓地からの林道が樺山林道でしたか(汗 / 〔荷沢峠北側の〕堂場沢の舗装林道〔広域基幹林道土室線〕から樺坂峠への入口と思われる所を、うちの掲示板に貼っておきます。/ ただ、道らしきものはあるものの薮々_| ̄|○ / でも舘跡を巡り歩くとらねこさんなら楽勝?(w」

 

 

松峰(まつみね*53 778.2m

▽松峰(地理院地図 標高778.2m)。山頂に四等三角点「松峰(まつみね)」778.20mがある*54。住田町の北域。遠野市との境界。東に男火山、女火山。北北東に貞任山。南西に樺山(808.3m)が連なり、そのさらに南西に荷沢峠(国道107号)。南南東に加労山。(なお、南西の樺山との間に「樺坂峠」を擁する可能性が高い*55。)

▼〔航空写真:〕Googleマップ:航空写真|松峰(住田町) https://goo.gl/maps/jokuM1CT8832
▼〔地形図:〕地理院地図|松峰 778.2m(住田町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.223227/141.479766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f1

 

▼四等三角点「松峰」〔2016/04/11〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201604/article_1.html
▽「■松峰/ ・山行日 2016年03月15日(火)晴れ/ ・所在地 岩手県遠野市、住田町境界/ ・標高 778.2m」
▽「四等三角点「大葛」を下山後、四等三角点松峰*56へ向かう。御料局三角点の有った三等三角点「樺阪峠」〔樺山〕*57とは土塁で繋がっている。「樺阪峠」には宮界標「界甲二七六」が有った*58から、四等三角点「松峰」にも宮界標がある可能性は高い。/ 国道一〇七号〔国道107号〕沿いの堂場〔遠野市小友町〕から、貞任山の中腹を通り、平笹〔遠野市小友町〕へ抜ける舗装路〔広域基幹林道土室線〕へ進む。最終民家を過ぎて間もなく、残雪で車の進入ができない。路上に車を止めて歩くことにする。/〔※略〕/ 13:40分 四等三角点松峰」到着/ なだらかな尾根上に土塁が通っている。周囲の積雪は20cmぐらい。三角点標石は雪の下。これは期待外れ。これでは標石探しは難しい。〔※略〕/ 土塁が直角に向きを変える場所の外側(西側)、座標の場所を掘ってみると四等三角点〔点名:松峰〕が現れる。土塁脇の松に古い見出標の破片が付いている。番号部分は無くなっている。探し出すのは難しそう。/ ↓土塁角に三角点〔※写真〕/ 土塁に沿って南へ下ってみる。最初に見つかった見出標は261ホ2。杭は雪の下で見つからない。次の見出標は263。こちらはコン杭〔コンクリート杭〕。次の264もコン杭。ここまでにして三角点へ戻る。/ ↓土塁に沿って南へ下る/〔※略〕/ ↓東方に男火山〔おんびやま〕、女火山〔めんびやま〕が見える〔※写真〕/ 今度は北へ進んでみる。土塁が左へ曲がる角の内側(西側)にコン杭260があった。近くに山マークではないコン杭四一もある。こちらは牧場境界杭だろうか?/ この先も土塁が続いている。しかし次第に標高が高くなってゆくから、標石探しは無理。今日はここまでにする。宮標石はなかったが、見つかったのはコン杭だから〔松峰に宮標石が存在する〕可能性は高そう。〔樺山の〕三等三角点「樺阪峠」の界甲二七六に繋がっているのは間違いない。/15:06分下山する。/ 〔※略〕」

▼界甲二五二〜二六〇 1〔2016/04/18〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201604/article_3.html
▽「■界甲二五二〜二六〇/ ・山行日 2016年04月09日(土)晴れ/ ・所在地 岩手県遠野市、住田町境界/ 〔2016年〕3月15日に4等三角点「松峰」に登った時には、雪があって標石〔界標〕探しができなかった。今回は4等三角点「松峰」から北方に伸びる土塁に沿って探査してみる。/ 〔荷沢峠北側の〕堂場沢沿いに伸びる舗装路の雪はすっかり溶けている。国道107号から約2.5km地点、林道〔広域基幹林道土室線〕入口付近の路肩に車を止めて出発する。/ 7:50分 林道入口出発/ この場所、左カーブから右へ入る林道がある。前回〔3月15日〕はこの手前の橋を渡った場所から尾根を登って林道に合流している。林道は進入禁止、整備されて間もない林道だから路面は良好。今回も同じ場所から斜面に取付き尾根を登る。/ 8:17分 4等三角点「松峰」着/ 4等三角点「松峰」には宮界標が有るはず・・と期待していたが、有ったのはコン杭〔コンクリート杭〕だった。コン杭の番号は二六だけしか見当たらない。見出標の破片からも番号が確認できないが、前後の番号から推察すると二六一で間違いないと思う。/ 〔※略〕」

 

 

貞任山(さだとうやま*59) 883.5m

▽貞任山(地理院地図 標高883.5m)。山頂に二等三角点「貞任(さだとう)」883.49mがある*60。住田町の北域。遠野市との境界。南東に男火山、さらにその南に女火山。南に加労山。南西に松峰、樺山、荷沢峠(国道107号)と連なる。東方に蕨峠(岩手県道238号 遠野住田線)。南斜面には住田牧場*61が広がり、三三九度岩がある。また、山頂の南東方面、男火山との間に四等三角点「名古峰(なごみね)」771.95mがある*62。(なお、遠野市土淵町に同名の別の貞任山(886m、三角点なし)*63がある。それに対して住田町境界の山は「南の貞任山」とも呼ばれるという。)

▼〔地図:〕貞任山 - 気仙郡住田町下有住奥火の土/山:マピオン電話帳 http://www.mapion.co.jp/phonebook/M07003/03441/L0580907/
▼〔航空写真:〕Googleマップ:航空写真|貞任山(住田町) https://goo.gl/maps/FgBQh23atYJ2
▼〔地形図:〕地理院地図|貞任山 883.5m(住田町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.236259/141.486547/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

▼〔五万分一地形図「人首」(明治期?):〕1:50,000 chikeizu | Stanford Digital Repository https://purl.stanford.edu/vy114wv0302

 

▼貞任山 884.2m 2012年6月3日|あかりんの岩手低山奇行 http://akarin-yama.at.webry.info/201206/article_3.html
▽「〔貞任山は〕住田町遠野市の境界にあります。「やっちゃん日記」では北側〔遠野市側から〕のルートですが*64加労山に引き続いて南側〔住田町側〕の林道から入りました。/ 加労山北側の部分は通行禁止ですが、火の土地区〔住田町下有住〕から貞任山に至る林道〔火の土林道〕*65は通行禁止にはなっていませんでした。昨年〔2011年〕、〔東にある岩手県道238号の〕蕨峠*66側から走った時は、途中で道がなくなり、貞任山までは到達できませんでした。/ 〔山頂南は〕三三九度岩*67付近まで道があり、入ることができました。その先は〔住田牧場の〕牧草地内の道ですので、ここから歩きました。ガスでほとんど視界がありませんでした。/〔※略〕/ 〔山頂の〕展望はガスのためなし。藪山集団〔薮山登山家集団〕のプレートがありました。/ 〔※略〕」

▼貞任山〔2011/12/13〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201112/article_4.html
▽「■貞任山/ ・山行日 2011年12月10日(土)曇り/ ・所在地 岩手県遠野市、住田町境界/ ・標高 884.2m/ 遠野市の貞任山は南北に二つあるが、今回の貞任山は南の住田町境に位置している。/ 貞任山には登山道が無いらしい。山頂南斜面には住田牧場の牧草地が広がっているから、牧場の林道を使えば山頂近くまで車での進入ができそう。しかし夏場は作業の邪魔になりそうだし、作業道も荒れていそうだから乗用車では登りたくない。/ 地図を眺めると、山頂の北側〔遠野市側〕を林道〔広域基幹林道土室線〕が通っている*68。この林道から山頂まではわずかな距離だから、藪こぎしてもたいしたことは無さそう。林道が冬季通行止めになる前に登ってみることにする。/ 奥州市から種山高原を越えて国道397号を〔東の〕住田町へ向かう。住田町世田米から国道107号を北上して遠野市方面へ進む。荷沢峠から〔北へ〕約1.7km地点で、右の堂場沢沿いに延びる林道に進む。林道入口には「広域基幹林道土室線」の案内板が立っている。この道、基幹林道と言うだけあって集落を過ぎても舗装路面が続く。標高650m付近まで登ると西側、種山高原方面の展望が開ける。/〔※略〕/ 10:53分 貞任山山頂到着/ 灌木藪に覆われた山頂にはプレートが一枚。二等三角点〔点名:貞任〕。展望は無い。他に標石は無いか・・?と探しまわるが無かった。土塁沿いは藪が酷いので探すのは諦める。/〔※略〕/ 藪を漕いで南側の牧草地に出ると、斜面を下ってゆくトラックが見える。・・と言うことは、南側の林道〔火の土林道〕*69が使えるということになる。/ 牧草地からは南側180度の展望が開けている。東に六角牛山〔遠野市〕、片羽山〔片葉山。釜石市〕が見えているが、雲が掛っていて山頂は見えない。直ぐ南には男火山女火山、その左には五葉山、右奥に氷上山〔陸前高田市〕が見えている。南西方向には原台山と室根山が霞んで見えている。山頂の西側に回り込むと種山高原が見えてくる。北側は物見山*70の山頂部分、その遠方は雲の中で見えない。/ 〔南の〕牧草地を下って三三九度岩まで歩いてみる。特に見どころは無かった。往路を戻って11:55分下山する。/ 林道→28分→貞任山山頂〔※略〕」

 

▽参考:(貞任山)
▼奥火の土,forever!!〔2009/04/20〕|追憶の南部北上|mkawa の地質ブログ(川村信人) http://www.sci.hokudai.ac.jp/grp/mkawa/mkawa_web/kawamura/geol_blog/kitakami/0293a11f27049fb1456ae88fcfea160fe9944557.html
▽「〔※略〕/ 昔撮った写真を見ていたら,こんなのが出てきました.デジカメではないのでいつ撮ったものかは分かりません.これは秋かな? それとも早春か??/ 卒業論文から修士論文のときまで歩いた岩手県気仙郡住田町奥火の土〔おくひのつち〕の山々です.〔写真の〕向こう真ん中〔北側〕に見える牧草地みたいなのが貞任山.歴史を感じさせる名前ですね.右端に見えているのが男火(おんび)山女火(めんび)山です./ 真ん中の沢が火の土川〔ひのつちがわ〕で,この右後ろに奥火の土の集落があります./ 懐かしいな...ていうか,それ以上のものがありますね.これが良くも悪くも地質屋としての私を育ててくれた南部北上〔山地〕の典型的な風景です.しかしまあこうやって見ると,露出悪いですね./〔※略〕」

 

 

男火山(おんびやま) 878m、女火山(めんびやま) 852.2m

▽男火山(地理院地図 標高878m(三角点なし))、女火山(地理院地図 標高852.2m。三等三角点「女ビ山/女𨫤山(めんびやま)」852.20mがある*71)。北と南に連なる。住田町の北域。北に貞任山。南東に鷹取山。西麓に横川が南流し、火の土川へ向かう。南西に、横川・火の土川を挟んで加労山。西に荷沢峠(国道107号)、北東に蕨峠(岩手県道238号遠野住田線)がある。

▼〔地図:〕男火山 - 気仙郡住田町下有住/山:マピオン電話帳 http://www.mapion.co.jp/phonebook/M07003/03441/L0580160/
▼〔航空写真:〕Googleマップ:航空写真|男火山(住田町) https://goo.gl/maps/fKxLKTPGtvt
▼〔地形図:〕地理院地図|男火山 878m(住田町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.222795/141.505816/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

▼〔地図:〕女火山 - 気仙郡住田町下有住/山:マピオン電話帳 http://www.mapion.co.jp/phonebook/M07003/03441/L0576153/
▼〔航空写真:〕Googleマップ:航空写真|女火山(住田町) https://goo.gl/maps/94RtFYFaq962
▼〔地形図:〕地理院地図|女火山 852.2m(住田町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.217343/141.509893/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

▼〔五万分一地形図「遠野」(明治期?):〕1:50,000 chikeizu | Stanford Digital Repository https://purl.stanford.edu/yj955pw5941

 

▼男火山 878m 女火山 852.9m 2012年6月3日|あかりんの岩手低山奇行 http://akarin-yama.at.webry.info/201206/article_4.html
▽「男火山(おんびやま)女火山(めんびやま)、名前がおもしろいのでずっと気になっていましたが、ようやく登頂を果たしました。「やっちゃん日記」では残雪期の〔2010年〕3月に蕨峠手前の通行止めゲート〔岩手県道238号〕から歩いていますが、女火山まで2時間46分かかっています。通行止め解除直後の時期を考えていましたが、逃してしまいました。/ 昨年〔2011年〕の秋に、蕨峠側から住田牧場〔貞任山南斜面〕への林道を走りましたが、途中で道がなくなりました。/ 男火山の北麓まで牧草地が広がっているようなので、男火山までは何とかなりそう、その先の女火山までの縦走はひどい藪こぎだろうと覚悟して出かけました。/ 〔南側の〕火の土地区〔住田町下有住〕から貞任山に向かう林道(通行制限なし)〔火の土林道〕が、住田町と遠野市の境界を越えるところで、男火山方面に向かう破線の道が分岐します。〔※略〕/ 男火山山頂は藪の中で、ILPのプレートがありました。久々にひどい藪山でILPのプレートを発見しました。男火山までは18分でした。牧草地を歩いても林道分岐から20分程度ですから、案ずるより近い山でした。」
▽「この先、女火山との鞍部に達するまでがひどい藪でした。〔※略〕/ 破線の道は東へそれて行くので女火山への山頂へ最後の藪こぎです。男火山山頂付近よりはたおやかな藪でした。男火山から28分でした。〔女火山山頂の〕三角点〔点名:女𨫤山〕は藪の中、文字部分が欠けた青白プレート、文字が消えた木のプレート、そしてILPのプレートがありました。/〔※略〕」

▼男火山・女火山〔2010/03/17〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201003/article_3.html
▽「■男火山・女火山/ ・山行日 2010年3月12日(金)曇り/ ・所在地 岩手県気仙郡住田町/ ・標高 男火山 878m 女火山 852.9m/ 住田町と遠野市の境界にある住田牧場〔の南〕に、男火山(おんびやま) 女火山(めんびやま)というおもしろい名の山がある。整備された登山道はたぶん無さそうだから、残雪期の今のうちに登ってみることにする。/ 住田町の下有住長桂寺*72から火の土川〔ひのつちがわ〕沿いに〔火の土林道を北西へ〕進み、火の土集落へ向かう。火の土集落のY字路から右へ、横川*73沿いに女火山へ伸びる林道に入ってみる。道端で会った地元の方に、女火山へ登る道を聞いてみたがはっきりしなかった。しかしこの先の林道は、女火山の南斜面を横切って、北隣〔北東?〕の谷間を通る県道238号〔遠野住田線〕*74へ続いているという。林道が通れるとすれば、女火山へはかなり近いルートになる。/ 集落の中を上っていくと、奥の民家から先は雪が残っていて車の走行はできない。集落から歩くのでは距離が長くなりそうだから、遠野市側の県道238号を使って〔北の〕住田牧場側から登ることにする。/ 遠野市上郷町の国道283号から県道238号へ入り〔南の〕わらび峠〔蕨峠〕へ向かう。わらび峠は冬期間通行止めになっている。手前の〔通行規制の〕ゲートに車を止めて出発する。/〔※略〕/ 11:16分 林道入口着/ 県道は橋を渡って左へ折り返すようにカーブして行く。この場所から住田牧場へ続く林道が右に分かれる。林道へ進み住田牧場〔貞任山南斜面〕へ向かう。/〔※略〕/ 12:05分 門柱着/ 林道の両脇にコンクリート製の柱が立っている。牧場〔住田牧場〕入口の門柱だったのかもしれない。鉄製のゲートが有ったのかもしれないが、門柱の根元で切り取られたような跡が残っているだけ。門柱を過ぎて少し進むと北方の物見山〔遠野市遠野町〕から六角牛山、片羽山〔片葉山〕、東方の五葉山方面にかけての展望が開ける。〔※略〕/ 13:09分 男火山山頂到着/ 三角点の無い山頂にプレートは見つからない。山頂はまばらな林だから天候さえ良ければ展望は良さそう。」
▽「三角点のある女火山へ向かう。男火山山頂からは林が邪魔をして女火山は見えない。山頂から南斜面を少し下ると女火山が見えてくる。雑木林の狭い尾根を鞍部に向かって下る。柴の薄い部分を選びながら進む。それでも雪が積もっているから歩けるが、夏になったらかなりの薮こぎになりそう。ルート目印のテープなどは全く見当たらない。/〔※略〕/ 13:36分 女火山山頂到着/ 女火山の山頂は男火山よりも幾分なだらかになっている。山頂プレートは2枚、アカマツの幹に針金でくくり付けられている。しかし、青地に白文字のプレートは、大きく破損して文字部分が無くなっている。山頂の3等三角点〔点名:女𨫤山〕は雪の下で見えない。山頂からの展望は比較的良さそうだが、周囲の山並みは雲に覆われてしまってほとんど見えない。北隣の男火山とその右に物見山〔遠野市遠野町〕が見えているくらい。/ 山頂から南の尾根方向に古い目印テープが続いている。これは女火山の登山ルートなのだろう。南麓の火の土集落〔下有住〕方面の林道から登ってくるのかもしれない。住田牧場の草地から男火山へ登る斜面には目印テープは無かった。男火山と女火山の間にも目印は見つからなかった。尾根筋には境界見出標も無かったので、整備された登山道は無いのかもしれない。往路をたどって15:45分県道ゲートに戻る。/ ・県道238号〔蕨峠〕ゲート→26分→林道入口→21分→林道分岐→56分→牧場稜線→17分→牧場の端→19分→男火山→27分→女火山/ ・県道238号ゲート→2時間46分→女火山/ 〔※略〕」

▼男火山・女火山2015〔2015/11/08〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201511/article_3.html
▽「■男火山・女火山2015/ ・山行日 2015年11月03日(火)曇り/ ・所在地 岩手県住田町/ ・標高 男火山878m/女火山852.9m/ 男火山女火山には2010年3月に登っている。その時は積雪があって三角点標石などは確認できなかった。標石確認のために改めて登ってみることにする。/ 今回も前回と同じルートで登る。県道238号〔蕨峠近く〕から〔西の〕住田牧場〔貞任山南斜面〕へ続く林道へ入る。牧場内に進入規制はなし。貞任山へ続く草地内の砂利林道は走行可能。しかし県道から約2.8km地点に急斜面があって、軽トラ四駆がスリップして登れない。この場所を通過できれば男火山の麓まで車が入れる。/〔※略〕/ 11:45分 男火山山頂着/ 灌木と草が茂る山頂に到着。プレートはILPが一枚。展望はなし。周囲の地面を探し回る。見つかったのはプラ杭〔プラスチック杭〕が一本だけ。文字面は剥がれてしまっている。たぶん国調〔国土調査〕の杭だろう。/ 〔※略〕」
▽「次は女火山へ向かう。稜線の左側に藪の薄い斜面が続いている。鞍部までトラバース〔斜面を横断〕気味に下る。鞍部から左へ藪を漕ぐ。ササ藪は無いが、灌木がうるさい。2010年の時には、男火山女火山の間にあるピークを右に巻いて進んだような気がする。しかし雪のない今、右側は藪が酷い。ピークを乗り越えて進むことにする。ピークの上を過ぎると稜線の左側(北側)は藪が薄くなっている。赤テープが断続的についている。回収されなかったテープだろう。間隔が遠いからあまり役には立たない。鞍部の手前にプラ杭を一本確認。こちらも国調の杭だろう。/〔※略〕/ 12:19分 女火山山頂到着/ 藪の山頂に到着。三角点〔点名:女𨫤山〕はすぐに見つかった。〔三角点の〕等級は三等。プレートはILPが一枚だけ。前回あった青白プレートは無くなっている。/ 奥火の土〔住田町下有住〕方面に踏み跡、テープは見当たらない。周囲を探し回るが何も見つからない。標石が有ったとしても、この藪では柱石頭が出ていなければ見つけることはできないだろう。/ 〔※略〕」

北上山地の男火山と女火山に大きな雪庇が出来ていた〔2017/7/14〕 ( 登山 ) - 遊ジローの歩いてきた山 https://blogs.yahoo.co.jp/jfdfx699/68546564.html
▽「・コース:金沢浄水場→尾根取付き→女火山→男火山→牧場→林道分岐→金沢浄水場」
▽「林道は金沢浄水場*75まで除雪されていました。積雪は50㎝位でしょうか/ 今回は、林道先の左側の尾根から取り付き女火山へ行き、男火山を登った後に右の尾根を下って来ます/ 尾根に取付くのに、林道を200m位右カーブした所まで歩き、小沢を登り尾根に出ました/ 女火山への尾根は、南側は植林地で北側は灌木林になっていますので、その間を登りました/ 植林林が終わると灌木の籔が濃くなって来ました/ 女火山(めんびやま)山頂手前の南斜面です。ここは灌木が無く展望が良かったので東側の山々が望めました/ 女火山(めんびやま)山頂手前から振り返り見る、登って来た東側の尾根です。遠景は六角牛山〜片羽山方面です/ 女火山(めんびやま)山頂手前から振り返り見る、登って来た東側の尾根です。遠景は愛染山〜五葉山方面です/ 女火山(852m)山頂には山名が書かれたプレートが有りました/ 女火山から眺める男火山です/ 尾根鞍部から眺める男火山です。女火山から男火山までは展望の無い藪尾根を歩きます。また鞍部付近には小さな雪庇が出来ていました/ 尾根鞍部から振り返り見る、女火山です/ 男火山(おんび)山頂手前の南斜面にも開けた空間が有りました/ 男火山への山頂部です。雪が深いです/ 男火山(おんび・878m)山頂にも山名が書かれたプレートが有りました/ 男火山(おんび)山頂から眺める北側の稜線です。遠くは物見山です。男火山の山頂付近は展望が良く、場所を変えれば360度の展望が有りました。また山頂から北側に雪庇が出来ていました/ 男火山から眺める北側の貞任山です。遠くに早池峰が見えます/ 男火山から藪を漕いで北側の住田牧場のコルに下ります/ 住田牧場のコル付近には高さ10m位の雪庇が出来ていました。北上山地では珍しいです。牧場にする為、灌木などを伐採し障害物が無くなってので、風下に出来た人工的な巨大雪庇でしょうか。スキー場付近でもよく見る風景ですね/ 雪庇の上から振り返り見る、男火山です。コル付近の雪は乾燥雪で風雪地帯は硬かったので歩くのに楽でした。※雪庇の先端にはいけません/ 振り返り見る、男火山とコル(住田牧場)付近に出来た大きな雪庇です。コル付近は風が強く、東側の牧場の雪が飛ばされて巨大雪庇になっています。コルからの下山は雪庇の小さい所を崩して下り東尾根に乗りました/ 東尾根の下りです。東尾根は分岐していて分り難いのでGPSで確認しながら灌木の尾根を下り、出発した金沢橋に出ました/ 金沢浄水場付近へ戻って来ました。今回は雪が思いのほか多く有り、藪も埋まっている所も多く、歩き易かったので早く回れました。この後、住田町の母衣下山へ移動します」

 

 

鷹取山(たかっとやま*76) 597m

鷹取山。山頂に三角点はない*77地理院地図 597m。住田町の北域。東に新切川および岩手県道238号を挟んで母衣山。同じく北東に羽越山。北西に女火山。北に横沢を挟んで松森鉱山跡*78がある。

▼〔地図:〕鷹取山 - 気仙郡住田町下有住/山:マピオン電話帳 http://www.mapion.co.jp/phonebook/M07003/03441/L0579999/
▼〔航空写真:〕Googleマップ:航空写真|鷹取山(住田町) https://goo.gl/maps/JdiKG6koi5n
▼〔地形図:〕地理院地図|鷹取山 597m(住田町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.208132/141.545856/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

▼〔五万分一地形図「遠野」(明治期?):〕1:50,000 chikeizu | Stanford Digital Repository https://purl.stanford.edu/yj955pw5941

 

鷹取山 597m 2012年10月20日|あかりんの岩手低山奇行 http://akarin-yama.at.webry.info/201210/article_33.html
▽「鷹取(たかっと)山は、三角点のない地図に名前のある山です。その南方約2kmにある573.8m峰〔※現在の573.1mピーク〕*79の方がよほど存在感がある山ですが、地図には名前がありません〔※山頂の三角点名は「矢口山(やぐちやま)」(俗称 知長峰)〕。/ やや地形が複雑で、どうアプローチしようか悩みましたが、山頂南側の標高420m付近に達している破線の道から登ることにしました。/ 林道を進み、紙の地形図では実線が破線に変わる場所(分岐あり)*80に車を置きました。この先も何とか車は走れそうですが、歩くことにしました(10時32分)。/〔※略〕/ 何とか小ピークに出ると、稜線上は腰までの笹藪でホッとしました。最後は急斜面を登り、山頂に到着しました(11時29分)。もちろん三角点はなく、プレートもありませんでした。名前はあっても、三角点がなければ…現金なものです。こういう山には、プレートを自らつけてあげたいと思った次第です。/ 〔※略〕」
▽「これで、住田町の地図に名前のある山は制覇しました。山の数は比較的少ないものの、なかなか悩ましい山が多数ありました。とても無理だと思った山がかなりありましたが、Vorsprung durch Technik*81でなんとか制覇しました。/ 林業の町、住田には、地図に名前のない存在感がある山がまだまだ無数にあります。しかしファーストステージではいったん終了とします。おそらくセカンドステージは住田にまで手は及ばないでしょう。/ あの世で地下から攻めるか、来世にするか検討します。天の国から、雲に乗って制覇できれば楽なのですが、それは許されないでしょう。」

鷹取山〔2015/01/10〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201501/article_5.html
▽「■鷹取山/ ・山行日 2015年01月05日(月)晴れ/ ・所在地 岩手県住田町/ ・標高 597m/ 鷹取山〔たかっとやま〕には三角点が無い。しかしあかりんさんのブログ記事を見ると、山頂に標石*82が写っている。気になるので確認のために登ってみる。/ 住田町の国道340号線から県道238号〔遠野住田線〕へ進む。〔北進〕約0.8km地点から左の林道へ進む。300mほどで最終民家に到着。その先は砂利林道になる。〔※略〕/ 10:30分 鷹取山山頂到着/ 山頂は40〜50cmの吹き溜まりになっている。雪を掘って山頂部分の地面を出す。気になっていた標石はコン杭〔コンクリート杭〕だった。文字はなし。他に標石は見つからなかった。プレートもなし。コン杭の周りに錆びた針金があった。伐採作業の時のものだろうか。/ 雑木に囲まれていて山頂からの展望は殆どない。西方に男火山女火山の稜線が枝越しに見える程度。11:35分下山する。/ 〔※略〕」

 

▽参考:(鷹取山
鷹取山岩手県気仙郡住田町下有住付近)|全国の鷹取山・高取山|大磯町の石神台花倶楽部 http://vbsoft.sub.jp/hana/gazouhyouji.cgi?no=33
▽「33 鷹取山岩手県気仙郡住田町下有住付近)/ 宮古の茂市〔宮古市茂市(もいち)〕にある高取山と対で、〔地図上の線を〕延長すると松島の鷲尾山につながる。この山中を東征隊が進んだことを指し遺したのだろう。下段の〔写真の〕山は鷲尾山です。」 ※写真2葉あり。上段の1葉は鷹取山の写真と思われる。

義経夢の会|月例・義経北紀行伝説の史跡地探訪の旅 第2弾 http://yoshitune.webcrow.jp/
▽「■<月例・義経北紀行伝説の史跡地探訪の旅 第2弾>/ 日時:〔2016年〕8月17日(水)/ 企画・プロデュース 義経夢の会ツアー企画委員会」
▽「〔※略〕/ 11:20 ・・橘内屋敷跡*83見学/ ※〔橘内の屋敷跡は〕住田町下有住(しもありす)奥新切(おくにきり)にある。慶取山〔※おそらく「鷹取山」の誤植〕の中腹にあり、この一帯は「ヨシウチ金山跡*84とされ、橘内(橘次の弟)*85が管理する金掘り場であったと云う。現在、屋敷跡とされる場所に「地主大明神」*86が鎮座している(らしい)/ ※慶取山〔鷹取山〕を北西さらに5.5km登った頂きを「貞任山(884m)」という。そこから400m南東に「三三九度岩」があり、さらに南東3km先に「男火山」「女火山」がある。この名称から想像するに、この地が安倍貞任のゆかり深い土地であったことが窺え、山の名から、安倍氏の守護神である、男女一体神の荒覇吐神*87を想起させられる。/ ※義経主従一行は、橘内屋敷で海の幸と山の幸で厚い歓待を受け、数泊して旅の疲れを癒やしたと云う。/ ※有住中学校そばの五葉川脇に、昔「判官手掛けの松」という老樹があったという。現在その場所にある松は三代目の松だと云う。/ ※この地は急勾配の難所で、義経主従一行は、木や草につかまりながら崖を登ったと伝えられる。/ ※「葉山橋」〔葉山めがね橋〕のたもとには「弁慶の足跡」と称する岩の窪みが残っている。/ 〔※略〕」

 

 

▽※この記事は、国土地理院Webサイトで公開されている測量成果及び測量記録を使用して作成しています。

 

 →▼住田町の「山」(その0):もくじ - atimus's blog http://atimus.hatenablog.jp/entry/2016/09/13/000000

 

*1:「夕日山(ゆうひやま)」。山名読みは、山頂の三角点の読み「ユウヒヤマ(夕日山)」に従う。

*2:「三等三角点「夕日山(ユウヒヤマ)」745.29m」。点の記; 「基準点コード TR35841633501/冠字選点番号 是11」「所在:岩手県陸中国上閉伊郡小友村字荷沢/ 俗称 夕日山」(明治43年選定・造標・観測) →▼基準点成果等閲覧サービス|三等三角点「夕日山」745.29m http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx?lat=39.199470349942736&lon=141.44269929733787&z=15&did=std

*3:「夕日山林道」。夕日山山頂の西側から北の丸森山(遠野市)方面などへつながる林道。小友林道と接続している。 →▼東北森林管理局|国有林の見所10月 http://www.rinya.maff.go.jp/tohoku/syo/tono/midokoro/10gatu.html 小友林道から夕日山林道への分岐点の写真がWeb上にある; 「R107、遠野市藤生集落から〔小友林道へ〕入ります。/ 夕日山林道との三叉路、左に進むと夕日山林道です。/ 三叉路、右に進むと外山林道へ至ります。/〔※略〕」 →▼林道への案内板|小友林道の写真 Ver.1 (撮影日:2001/10/06) http://www.rindo21.com/touhoku_kita/iwate_sumita/iwate_kotomo/photo1/ 「小友林道」については次のページ参照。→▼林道への案内板|小友林道 http://www.rindo21.com/touhoku_kita/iwate_sumita/iwate_kotomo/

*4:「ILP」。ILP(I.L.P.)は「Iwate Local Peaks」の略という。登山家グループと考えられる(個人の可能性もある)。詳細は不詳。山頂に、主として水色+白の山名プレート(山頂標識)を残している。次のWebページに、I.L.P.山名プレートの文字の転記がある; 「真新しい山名プレートがあった。ILP (researched for iwate local peaks) と書かれている」」 →▼平成24年04月の山行報告|青森県の山とはぐれ山男のページ http://taneichi.fc2web.com/no1204yamahoukoku.html また、ブログ「やっちゃん日記・山行記録集」に次の記述と写真がある; 「〔山頂の〕プレートは青白、藪山〔藪山登山家集団〕、他に板切れ2枚。そしてプラスチックのプレートが一枚あった。手書きで「IWATE LOCAL PEAKS」の文字。ILP初期の手書きバージョンのプレートかもしれない。」 →▼送仙山〔2012/07/23〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201207/article_4.html なお、I.L.P.プレートには連絡先の記載がないという。次のブログ記事参看。 →▼ようやく目に留まったか〔2012/12/04〕|あかりんの岩手低山奇行 http://akarin-yama.at.webry.info/201212/article_8.html

*5:「藪山集団」。藪山登山家集団(TRIANGLE・POINTS in MORIOKA CITY)、1975年結成(※プレートに「since 1975」とある)。登山家グループと考えられる(個人の可能性もある)。山頂に、主として青+白、もしくは赤(臙脂色)+白の山名プレート(山頂標識)を残している。次のブログ記事参照。 →▼山名プレート〔2012/01/16〕|あかりんの岩手低山奇行 http://akarin-yama.at.webry.info/201201/article_27.html

*6:「〔夕日山の〕山頂に三角点〔標石〕がありましたが、10数m離れたところにも三角点がありました」。後者は明治時代の御料局三角点と考えられる。次の記事(後掲)参看。 →▼夕日山〔2012/06/16〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201206/article_3.html

*7:「あかりんさんのブログで、夕日山の記事に気になる標石写真が載っている」。ブログ「あかりんの岩手低山奇行」の次の記事(後掲)に、「三角点」「もう一つの三角点」とキャプションを添えた三角点標石の写真が掲載されている。 →▼夕日山 745.9m 2012年5月20日|あかりんの岩手低山奇行 http://akarin-yama.at.webry.info/201205/article_38.html →(画像jpeghttp://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/005/231/89/N000/000/004/133751878077913102218_IMG_0089.jpg

*8:丸森山を下山後、国道107号を迂回して遠野市小友町から夕日山の北側を通る林道に入る予定だった」。おそらく国道107号から小友林道経由で夕日山林道に入るルートを指す。林野庁東北森林管理局Webサイトに、「■小友第一国有林夕日山(10月中旬〔撮影〕)/ 国道107号線から小友林道を経て夕日山林道に入る。この地区はアカマツ、スギが育てられている。その合間の広葉樹とツルはこの時期は綺麗な紅葉を見せる」とある。 →▼東北森林管理局|国有林の見所10月 http://www.rinya.maff.go.jp/tohoku/syo/tono/midokoro/10gatu.html 前掲註(夕日山林道)参照。

*9:丸森山から夕日山方面へ続く林道」。不詳。夕日山林道を指すか? 丸森山の西側から物見山(種山)方面へ向かう林道から分岐して夕日山へ向かう道、もしくは丸森山の山頂南から東に向かったあと南行して藤沢を越え、赤岩沢、アヅ沢とたどって夕日山に至る林道のいずれかを指すと考えられる。

*10:「御料局三角点」。明治期、宮内省御料局が皇室御料林(皇室所有の森林)に設置した三角点。一般的には「御料局三角点」の刻字がある。1908年(明治41年)の帝室林野管理局(のち帝室林野局)への改組後は「宮三角点」となった。なお、皇室御料林以外の国有林には、農商務省山林局が「主三角点」を設置した。以下に解説がある; 「明治時代、国有林の中でも皇室の財産であった森林〔御料林〕は、宮内庁御料局というところが管理していました。その他の国有林は、農商務省山林局が主に管轄していました。それぞれの役所は管轄林の管理のため、定期的に森林の面積をはかる測量をしていました。このための基準点として設置されたものが御料局三角点(御料局管轄)、主三角点(山林局管轄)でした。」 →▼旧日本政府の三角点-御料局三角点|三角点写真館 http://benchmark.yamagomori.com/01to19/hen_former/goryo.html 御料局三角点の形状や歴史について詳細な解説が次のWebページにある; 「御料局三角点標石は1894年(明治27)に定められた御料地測量規程(御料局長達第一二一七號)で寸法、形状が決まっています。三角点標石(図イ)は一辺が12〜15センチメートル、高さ約75センチメートルの角柱で上面は隅切り、×の刻印があり5分の4を地下に埋めます。主要な三角点には地中標(図ロ、一辺36、厚さ15センチメートル、陸地測量部の盤石に相当)を設けました。石標にかえ木標(図ハ)、固着岩石(図ニ、自然石上面に15センチメートル角の平面、界標としても使用される場合もあり)が使用されました。/ 「本點」(二、三等)のほかに「副點」(四等)があり標石の場合「御料局三角點」の刻字があります。三角点が不足する場合には「補点」を設けました。御料局三角点の等級は原則として三等以下になりますが稀に二等も見られます。細形測量の標石には「御料局測點」の刻字があります。御料局三角点には規程で定まっていないケースも多く形状もいろいろあり、また刻字も表に「御料局」裏に「三角點」とあるものや字体が異なるもの、上面の×印が+印などあります。〔参考文献:〕[御料局:「御料地測量規程 第一二一七號」1894〔年〕 p2-5、「第壹圖式」 大阪市立中央図書館蔵]/ 御料局三角点の次世代標石として宮三角點という刻字のある標石があります。「宮」のウ冠は広く丸みを帯びており宮内省を意味します。御料局が1908年(明治41)に帝室林野管理局と改称され、この機会に「御料局三角點」から「宮三角點」に変更されたました。境界標石にも「宮」が刻印されたものがありますが、これは「宮三角點」よりも以前からつかわれています。〔参考文献:〕[御料局:「御料地三角點石標ヘ彫刻スル文字ノ件 第一二一九號 長官ヘ伺定」1909〔年〕(『帝室林野局制規集』1933〔年〕 p339)]」 →▼御料局の測量(御料局/御料地/宮三角点/神足勝記)|史跡と標石で辿る日本の測量史(三角点の探訪) http://uenishi.on.coocan.jp/k740goryoukyoku.html 次のWebページも参照せよ。 →▼三角点と似た標石(三角点の種類)|松戸山の会・三角点探し隊 http://stone.matudo-yamanokai.com/mark030.htm 「帝室林野管理局」について、Wikipedia参照。 →▼帝室林野局 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%AE%A4%E6%9E%97%E9%87%8E%E5%B1%80

*11:丸森山の三等三角点の文字が北面に刻まれていた」。夕日山の北に位置する丸森山 724.3m(遠野市)山頂にある三等三角点「石森山」724.39mについて、同ブログに次の記述がある; 「8:50分 丸森山山頂到着/ 5分で山頂に到着。プレートは3枚。青白とILP、他一枚。三角点は三等。ちょっと変わっているのは、等級が北側に刻まれていること。普通は文字面が南になっている。コンパスで確認してみると柱石の方角は正確だから、意識的に文字面を北側にしている。/ 他に標石が無いか周囲を探しまわる。しかし何も見つからなかった。/9:04分 車に戻る。この後は夕日山へ向かう。」 →▼丸森山〔2012/06/15〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201206/article_2.html

*12:「物見山北隣りの大森山」。種山高原の大森山(奥州市江刺区米里)を指す。種山(物見山)の北西に位置する。 →▼地理院地図|大森山 819.4m(奥州市http://maps.gsi.go.jp/#15/39.220900/141.379151/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0 山頂には三等三角点「大森山(おおもりやま)」819.37mがある。 →▼基準点成果等閲覧サービス|三等三角点「大森山」819.37m http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx?lat=39.22101012308296&lon=141.37931947411283&z=15&did=std

*13:「主三角点」。明治期、国有林農商務省山林局が設置した三角点。等級は他に次三角点、補点がある。次のWebページに解説がある。 「山林局農商務省〕の測量は陸地測量部と並行して実施されていましたが1900年(明治33)には国有林野測量規程(農商務省訓令 第三十三號)が制定され三角測量や三角点の規格も定められました。要存置林の実測は三角測量と周囲測量が行われ1901年(明治34)から1910年(明治43)までに大半を終了しています。農商務省には測量技術者が不足しており当初は陸地測量部の応援を得ました。当時設置された三角点は「主三角点」「次三角点」「補点」の3種類があります。当時の標石は現在でも北アルプスや東北地方にも残置されてます。山林局の三角点は後年、陸地測量部の三角点に替わったものもありますが共存していた事例もあります。〔参考文献:〕[農商務省山林局:「山林局報 第二號附録 國有林野測量規程」、『國有林野測量内規』1901〔年〕p8 国立国会図書館蔵][松波秀實:『明治林業史要』大日本山林會 1919〔年〕 p704][松波秀實:『明治林業史要 後輯』大日本山林會 1924〔年〕/復刻版 原書房〔明治百年史叢書〕 1990〔年〕の巻末、島田錦蔵による解題]」 →▼森林測量 山林局 主三角点 次三角点|史跡と標石で辿る日本の測量史(三角点の探訪) http://uenishi.on.coocan.jp/k700sanrinkyoku.html 農商務省(のち農商省)“山林局”については次の解説ページ参照。 「山林局は森林原野に関する事務を掌るために、1881年(明治14)4月7日の農商務省設立と同時に〔その下に〕置かれ、1925年(大正14)4月1日設立の農林省にも引き継がれた。局内には林務課、公私林課(1929年に林政課)、林業課が置かれ、国公有林、民有林全般の林業行政や林産物、狩猟に関することを管掌した。1930年(昭和5)6月に監理課が新設され、林業課は業務課に改称された。これにより一般林政および民有林は主として林政課と林務課が所掌し、国公有の林政は主として監理課と業務課が所掌した。」 →▼山林局|アジ歴グロッサリー https://www.jacar.go.jp/glossary/term1/0090-0010-0040-0050-0130.html

*14:「大森山にも三等三角点と主三角点があるが、主三角点は北面に主三角点の文字、三等三角点は南面に三等三角点と刻まれている」。大森山819.4m(奥州市)山頂の三角点標石について、同ブログに次の記述がある; 「12:30分 大森山山頂到着/〔※略〕/山頂には標石が二本あった。三等三角点の他に、南面に「山」裏面に「主三角点」と刻まれた標石が立っている。この主三角点は、明治時代に農商務省山林局が林野の境界測量の基準点として設置したものだという。」 →▼大森山(種山高原)〔2009/12/11〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/200912/article_2.html

*15:「三等三角点・点名・建石」。種山トンネル(姥石峠)の北西、物見山(種山)の南西、住田町と奥州市の境界にある三等三角点「建石(たていし)」750.26mを指す。点の記; 「基準点コード TR35841622901/冠字選点番号 是25」「所在:岩手県陸中国江刺郡米里村字大野/ 俗称 建石」「順路:米里村字人首を発し気仙に通ずる県道を約二里 石灰小屋〔?〕前にある橋を渡り山道を約一里半 種山□□に上り南方の峰を登れば本点に達す 道難」(明治43年選定・造標・観測) →▼基準点成果等閲覧サービス|三等三角点「建石」750.26m http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx?lat=39.18726333556498&lon=141.3735030740873&z=13&did=std

*16:「辰砂山林道」。同ブログ記事の続編「その2」に掲載するルートマップ画像には、夕日山の南東側に荷沢峠(辰砂山開拓地の西側)から続いている林道を「辰砂山林道」と註記している。次のブログ記事(後掲)の末尾を参照。 →▼夕日山登頂記その2〔2010年12月14日〕|山猫を探す人II http://okenamay.exblog.jp/23094948/ 地理院地図で示せば次の道。 →▼地理院地図|辰砂山林道(?) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.190838/141.452365/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

*17:「独標734m峰」。夕日山山頂のほぼ真南(直線距離 約1.1km)にある734mピークを指す。地図で示せば次の峰。 →▼地理院地図|734mピーク(住田町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.189142/141.441207/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

*18:「地図でルートのおさらい」。同ブログ記事末尾の地図画像jpegを参照。夕日山の南東から登頂したことがわかる。 →▼〔画像:〕夕日山登頂記その2|山猫を探す人II http://pds.exblog.jp/pds/1/201411/22/57/c0337257_12224184.jpg

*19:「種山七里塚」。不詳。種山の「一里塚」とも。後掲のWebページ以外に、次のWebページに言及がある。 「近世の盛街道は、水沢を起点として岩谷堂〜人首町〜二股〜山本〜種山ケ原を経て、物見山の山頂を迂回し、大船渡の盛町まで至る経路です。全長79.5キロで、人首〔奥州市江刺区米里〕の二股から左折し山本を通って行くわけですが、そこには二股番所跡があり、また山本〔奥州市江刺区米里山本〕と種山ケ原には、それぞれ七里塚一里塚)がありますので、交通の要衝だったことがわかります。この道筋を、地元では「旧盛街道」と呼んでいるのですが、古くから旅人の往来が多くあり、その頃の山本は種山越えの休息地として、あるいは仮宿まであったともいわれ、今も道端にたたずむ古碑や史跡が、その名残りを伝えています。」 →▼賢治街道を歩く会|宮沢賢治と人首 http://www.kenji-kaido.jp/hitokabe/index.html

*20:「気仙」。岩手県気仙郡をいう。郡域は現在の住田町・陸前高田市・大船渡市一帯に重なる。Wikipediaに立項あり。 「■郡域: 明治11年1878年)に行政区画として発足した当時の〔気仙郡の〕郡域は、上記1町〔住田町〕のほか、概ね現在の大船渡市、陸前高田市および釜石市の一部(唐丹町)にあたる。」「■歴史: ■地名由来:〔※略〕/ ■古代 - 中世: 気仙郡という郡名は『続日本紀』の弘仁2年(811年)の条が初出であり、それ以前のいつかの段階で、桃生郡の北半を分割して、陸奥国気仙郡が建郡された。これは現在の宮城県北東部および岩手県南東部にまたがるものであり、現在の気仙沼市および本吉郡を含むものであった。〔※略〕/ ■戦国・江戸: 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置により、気仙郡を統治していた葛西氏が滅亡すると、気仙郡は木村吉清・清久父子の治下に置かれる。天正19年(1591年)に葛西大崎一揆で失脚した木村吉清に代わり伊達政宗の所領となる。同年8月、一揆に参加した気仙郡土豪の多くが、桃生郡須江山の糠塚舘において政宗の命令を受けた泉田重光・屋代景頼に殺害された。仙台藩ではこれを豊臣秀次の命令によるものであったと主張している。/ 江戸時代には引き続き伊達氏を藩主とする仙台藩の所領となった。関ヶ原の戦い〔1600年〕の後、藩境の情勢が安定するまでの間には大條宗直・中島宗求ら重臣が配置されたが、のちに直轄地となった。気仙郡の統治の中心となったのは代官所が置かれた今泉村〔現 陸前高田市〕であった。/ ■近代以降の沿革: ・幕末時点では陸奥国に所属し、全域が仙台藩領であった。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点に存在した村は以下の通り。(24村)/ 今泉村、長部村、高田村、浜田村、勝木田村、小友村、広田村、末崎村、大船渡村、赤崎村、綾里村、越喜来村、吉浜村、唐丹村、立根村、猪川村、田茂山村、日頃市村、上有住〔住田町〕、下有住村〔住田町〕、世田米村〔住田町〕、横田村、竹駒村、矢作村/ ・明治元年〔1868年,1869年〕 〔※略〕」 →▼気仙郡 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E4%BB%99%E9%83%A1

*21:「ここには藩境塚があり」。親ページ掲載の地図によれば、現在の国道107号沿いに在るように見える。 →▼【いわての街道】盛街道|いわての街道 http://www.bunka.pref.iwate.jp/seikatsu/kaidou/data/sakari.html また、『住田町町勢要覧』掲載の地図には、荷沢峠のすぐ南に「(史跡)藩境と蛭子館金山跡」の記載がある。 →▼PDF:住田町町勢要覧|住田町MAP http://www.town.sumita.iwate.jp/docs/2015020300014/files/H23-all-2.pdf#2  遠野(南部領)と仙台領の藩境塚について、宇夫方広隆の『遠野古事記』(1763年(宝暦13年)の序文を持つ)に次の記述があるという(現代語訳); 「■板橋から箕之輪までの塚〔藩境塚〕の数/ 一 板橋に〔境塚〕一つを遠野側〔盛岡藩〕が作り、大森〔大森山?〕に一つ人首側〔仙台藩〕が、同じ所にもう一つを遠野を側が作り、箱石に一つ人首側 が作り、物見山〔種山〕の下に一つ遠野側が作り、田瀬の尾根道より上に一つを遠野が作り、田瀬の尾根の上に二つを人首側が作り、せき取場(関谷場)に一つ人首側が作り、みのわ(箕の輪)に一つを遠野側が作り、みの輪(箕の輪)から似澤野荷澤〔荷沢〕)まであり十の藩境塚の内訳は次の通りです。〔※略〕」 →▼【口語訳遠野古事記】藩境塚(2)|取り組み|遠野文化研究センター http://tonoculture.com/dealing/modern-translation_tonokoziki/2163/

*22:「藩境塚」。南部盛岡藩と伊達仙台藩の藩境塚について、次のレファレンスも参照。 →▼南部藩と伊達藩の藩境塚について調べたい。特に藩境図が掲載されている資料があれば紹介して欲しい。〔2008年07月14日〕|レファレンス協同 データベース http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000049288

*23:「「世田米村元禄絵図」(元禄12・1699年)」。「気仙郡古地図」とも呼ばれ、仙台藩士(絵図師)・生江助内(なまえ・すけない)の筆という。次のWebページに同絵図の部分と考えられる画像がある(※藩境地点は含まれていない)。 →▼世田米・元禄絵図|「『金成・神成・嘉成・加成』地名考」|ザ・蝦夷 http://emisi.jp/index.php?%E4%B8%96%E7%94%B0%E7%B1%B3%E3%83%BB%E5%85%83%E7%A6%84%E7%B5%B5%E5%9B%B3  なお、この「世田米村元禄絵図」は、岩手県指定有形文化財「吉田家文書」に収める「気仙郡村絵図」(気仙郡「廿四箇村絵図」とも)のベース(原図)となった絵図とされる。吉田家文書所収の「気仙郡村絵図」は、文政5年(1822)年前後に作成された絵図とされ、金野静一『絵図に見る藩政時代の気仙』(株式会社熊谷印刷出版部、1981年刊)に収める(※なお、上掲Webページに「世田米・元禄絵図」として掲げる画像は、同書収録「気仙郡村絵図」の世田米村絵図(岩手県立図書館所蔵〔※同書凡例参照〕)とは異なっている)。次のブログが同書序文の解説を引用している; 「この本〔『絵図に見る藩政時代の気仙』〕には、仙台藩 気仙郡泉村(現・陸前高田市気仙町)の大肝入・吉田家に伝わる『吉田家文書』の中の、旧気仙郡各村の村絵図が所収されています。/ 金野〔静一〕氏の解説によれば、『このたび公開された同家の文書〔吉田家文書〕の中に、旧気仙郡各村の村絵図等29点が含まれていた。このうちの村絵図23点は、文政5年(1822)年前後に各村一斉に作られたもので、これによって郡境や村境を吟味し、当該村の村肝入を始め、隣接関係郡村の肝入達が連署・連判のうえ、これを確認しているのである。/ この村絵図の基となったのは、これが作成された文政年間から120年ほど前の元禄12年(1699)に、生江助内の手により作られた気仙郡古地図』であることは、各村絵図の中の添え書きによっても明らかである』(序)」 →▼『絵図に見る藩政時代の気仙』〔2011-10-17〕|Making of Ryukoku-cha http://d.hatena.ne.jp/ryukoku-cha/20111017/1318841242 「世田米村元禄絵図(気仙郡古地図)」を初めとする元禄期の生江助内による郡切絵図作成について、次の紹介がある; 「宝暦7年(1757)11月に中川原のそばで御穀船が破航したのを契機として、何れの村にに属するかの論争が始まり、それが郡境の論争に発展していますが、一連の論争の中で楊生村から提示された資料の中に、元禄11年〔1698年〕4月25日、北上川通りの御郡境見分御絵図を定める際、代官や大肝入らとともに絵図師役人・生江助内が舟で下り、御絵図を指上げたという記事があり、その時に中川原の所属について吟味された絵図の写しが伝わっています。しかしながら、両村の境は、東山と西岩井の境ではあるものの、どちらも磐井郡のうちであり、藩に提出された「郡切絵図」には示す必要のないものであり、実際記されていません。/ これらのことから、仙台藩が幕府に命じられた国絵図作成の際、郡境を調整するために作られた「郡切絵図」作成の機会を捉え、本来の目的とは遊離して、郡司が独自の詳細な郡絵図を作成することとなったと考えられます。その意図などは不明ですが、生江〔助内〕作成の郡絵図や村絵図は、大肝入や肝入に保管され、享保年間や文政年間に写を作成して藩に提出されたり、藩政期はもちろんのこと明治時代に至るまで土地をめぐる訴訟などの際には、基本資料として活用されるなど、村人たちにとって重要な役割を担ってきたのです。/ このように仙台藩北部の広大な面積にわたり、しかも後年まで基盤となる絵図を作成した生江助内の功績は大きいものですが、残念なことに、その人物についてはよくわかっていません。磐井郡流に隣接する栗原郡三迫(さんのはざま)武鑓(むやり)村の生江沢(なまえざわ)付近に知行地を有し居住していたと伝えられているのみです。〔参考文献:〕[一関市博物館発行「一関市博物館・第20回企画展「地を量る〜描かれた国、町、村」より]」 ▼一関市博物館第20回企画展「地を量る」の展示解説会 2013年9月28日(土) - peaの植物図鑑 http://blog.goo.ne.jp/pea2005/e/901a4728096fa03360a896e937fff617/ なお、伊達浩憲の論文「岩手県気仙地域における茶栽培と製茶の歴史的展開 :人びとの生業としての気仙茶」に吉田家文書中の絵図を「元禄12(1699)年に作成された「気仙郡村絵図」」と記すのはおそらく誤り。 →▼論文PDF http://satoyama.kenkyu.ryukoku.ac.jp/publication/8.%E7%AC%AC4%E5%9B%9E%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E3%80%8C%E5%B2%A9%E6%89%8B%E7%9C%8C%E6%B0%97%E4%BB%99%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%80%8D.pdf PDF配布元は次のWebページ。 →▼2012年度年次報告書里山学研究 「文化となりわいの景観 -持続可能社会の構築を目指して-」|刊行物・報告書|龍谷大学 里山学研究センター http://satoyama.kenkyu.ryukoku.ac.jp/publication/2013/03/2012.html 「吉田家文書」を残した気仙郡大肝入 吉田家については、次の記事も参照。 →▼住田町上有住「根岸吉田家」について - atimus's blog http://atimus.hatenablog.jp/entry/2016/08/04/000000

*24:「姥石峠」。

*25:「栗木鉄山跡(県指定遺跡)」。住田町世田米子飼沢にあった洋式高炉を備えた民営製鉄所跡。岩手県指定記念物(史跡)、1999年5月7日指定。 →▼文化財情報 詳細:栗木鉄山跡|いわての文化情報大事典(岩手県http://www.bunka.pref.iwate.jp/ciss/bunkazai/detail/id/450 →▼栗木鉄山|ヤマが街を生む〜松尾鉱山と栗木鉄山|いわての鉱山史(岩手県http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/kouzan/kouzan03_02.html

*26:「小股川と仙能沢〔千能沢〕にはさまれた山」。夕日山の南南東に位置する657m山(三角点なし)、もしくはその南の535mピークを指すか。次の地図参照。 →▼地理院地図|657mピーク(住田町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.182589/141.460133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

*27:「蛭子館金山」。ひるこだて-きんざん。蛭子館金山跡について、「金山サミット in 陸前高田」(2008年開催)での千葉英夫氏(住田町)による講演記録がWeb上で読める(後掲)。「蛭子館金山周辺の略図」および「住田町産金地図」も収める。 →▼PDF:リレートーク(2) http://www.tamayama-kinzan.com/03-meeting/images/03-02-04.pdf#page=11 なお、遠野市立博物館のWebページでは、住田町に隣接する遠野市小友町に蛭子館金山が位置するとされる。 「遠野にはかつて数多くの金山がありました。遠野市小友町から宮守町にかけての金山地帯は、平安時代末から採掘され、奥州藤原氏の平泉文化を支えたとの伝説もあります。また、小友町には東北地方で唯一の水銀が出る蛭子舘鉱山〔蛭子舘金山〕があり、寛永5年(1628)にはこの山をめぐって仙台藩盛岡藩の境争いが起きました。」 →▼【夏の特別展】金山繁昌―黄金に魅せられた人々―|遠野市立博物館|遠野文化研究センター http://tonoculture.com/tono-museum/notice/698/ 矢嶋澄策の論文「日本水銀鉱床の史的考察」(「地学雑誌」Vol.72, 1963年)では、水銀を産出する蛭子館鉱山は「岩手県上閉伊郡宮守村」(現在の遠野市宮守町)にあるとする(典拠不詳)。曰く; 「東北日本内外帯にわたつて,第三紀層といわれる緑色凝灰岩層中に胚胎する鉱床は,古くから日本鉱産資源上重要な鉱山を数多く産み出している。しかしこれらの中で水銀鉱物の産出が知られているのは,青森県南津軽郡碇ケ関と秋田県北秋田郡早口町長慶森の人征鉱山と岩手県上閉伊郡宮守村蛭子館鉱山の3つであつて,丹生の名を持つているところでも,水銀鉱物を産出した記録が残つていないのが多いのである。」 →▼日本水銀鉱床の史的考察〔矢嶋澄策, 1963〕|J-STAGE https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/72/4/72_4_178/_article/-char/ja/ なお、住田町に残る金山跡について、次のブログ記事に一覧リストがある。 →▼刊本「黄金の在処と行方」の詳細情報!〔2011年9月24日〕|かくれ里でcaranke!! http://kakurezato.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-345a.html

*28:「小股の紺野内膳」。江戸時代初期、寛永年間頃(17世紀)の世田米小股の人。「小股の内膳」とも称される。引用元ブログ記事に次のように記す; 「○小股内膳・・・旧葛西臣、小股紺野館の紺野隠岐の次男、紺野大学の長子、紺野内膳ともいわれる。南部領〔遠野〕との境目の金山を採掘、まさに気仙地方の金山師的な大きな役目を帯びていたらしく、仙台城下にも度々出張し、藩の上役はおろか藩主、伊達政宗にも3度、お目通りを仰せ付かったといわれる。/ ○宝蔵院〔玉蔵院とも〕・・・有住八日町の肝入、本姓を松田と称し、上有住恵蘇の樋ノ口館の松田大隈(千葉氏)の系譜と語られる。松田大隈は仙台藩へ仕えたともいわれるが、伝承では、地域の開拓に力を注ぎ上有住に土着帰農したのが真相ともいわれる。/ ブログ「遠野なんだり・かんだり」でも以前、触れられておりましたが、小股内膳の長女は宝蔵院の妻、二女は新谷帯刀の妻で、内膳、宝蔵院、帯刀は義親子、義兄弟の間柄でもある。」 →▼藩境物語・小友金山(伊達側から)|「じぇんごたれ」遠野徒然草 http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/b48481fcd51cd5d5c617bd826cfc392c また次のブログ記事; 「●小股内膳(こまたないぜん)● 寛永5年(1628)3月18日。遠野小友新谷のうち赤坂山へ気仙の小股内膳というものが入り込み、小屋を三つかけて金を掘り始めた。3月20日、新谷帯刀がかけつけて小股内膳らを追い出す。26日、再び小股、小屋を7つ作る。28日、新谷が再び追い出す。ところが、5月16日、小股は有住八日町の玉蔵院〔宝蔵院とも〕という山伏を連れてきて鉄砲50挺、鑓などをもって20ばかりの小屋をかける。これらの一連の騒動は、江戸幕府の裁定により、伊達藩の言い分がとおってしまう。/ 実は、ここに登場する三人は婚姻関係にある。/この小股〔内膳〕の長男の嫁は玉蔵院の娘で、小股の二女は新谷帯刀の妻。(小股は本姓紺野氏、玉蔵院の本姓は松田氏)また、小股内膳天正年中に小股古舘というところに在って熊野大権現を建立している。〔伊達〕政宗公に直々にお目見えができる立場にあったが、仙台で老衰により死亡。また、息子も仙台にて病死をしている。金山開発に関わる秘密保持の為に口封じをされた可能性が大きいような気がするのだが・・・。」 →▼住田町世田米祭り〔2007-05-05〕|「遠野」なんだり・かんだり http://blog.goo.ne.jp/fuefukidouji_2006/e/fd9f7f0a5a89d68f589168a95d4e5e4e 『遠野古事記』(宇夫方広隆 著、1763年序文)に「小股の内膳」の名が見える。現代語訳あり; 「その次に新谷で赤坂境を決める時、遠野の古人〔(村の役職名、土地に詳しい者でここでは境目の証人)〕・新谷の源五郎と気仙の古人・小股の内膳が出て話し合いました。「もぢが滝が境だ」と源五郎が申したのですが、言い方がおぼつかなかったため、内膳が申した通り赤坂山の峰が境に決まりました。」 →▼【口語訳遠野古事記】藩境塚|遠野文化研究センター http://tonoculture.com/dealing/modern-translation_tonokoziki/2111/ 次のWebページに上掲ブログ記事に記された金山争いや小股内膳の出自等の典拠(現代語訳)を載せる。 →▼【口語訳遠野古事記】赤坂山の金山争い|遠野文化研究センター http://tonoculture.com/dealing/modern-translation_tonokoziki/2075/ なお、仙台藩盛岡藩の金山争いについては、内藤正敏『東北の聖と賤 :民俗の発見 1』(法政大学出版局, 2007年)にも記述があるという; 「『東北の聖と賎』という本の「金牛と鰻神」という章で、遠野における伊達南部の金鉱争いの話が載ってます。こちらもご興味があれば。」 →▼帆船ハッカ(@kotosakikotoko)さん〔2016年1月28日〕 | Twitter https://twitter.com/kotosakikotoko/status/692723394513494018

*29:「赤坂金山」。遠野小友の赤坂金山をいう。場所、未詳。Web上に次の言及がある; 「現在の遠野の地図に「赤坂山」という名前の山はありません。地元の人によると、荷沢金山の西側が「赤坂山」ではないかということです。お隣の住田町史では〔荷沢峠の東側の〕「辰砂山〔しんさやま/しんしゃやま〕」のことを「赤坂山」と表記しています。「辰砂」とは水銀のことです。」 →▼【口語訳遠野古事記】赤坂山の金山争い|遠野文化研究センター http://tonoculture.com/dealing/modern-translation_tonokoziki/2075/ 次のブログ記事も参看。 →▼小友金山と平清水氏〔2007-05-14〕|「じぇんごたれ」遠野徒然草 http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/518c88f4ab027a0e406eca1d4156091f 辰砂山は荷沢峠の東方にあり、住田町の地名に「辰砂山開拓地(しんさやま-かいたくち)」がある。また、辰砂山に言及する次のブログ記事がある; 「さらに興味深い地名は峠の名前である荷沢。荷沢の「に」は荷物の「に」だと考えてしまいがちですが、どうもそうではないらしい。/ キーになる地名が荷沢峠の近くにある辰砂山(しんしゃやま)である。〔水銀を指す「丹(に)」「丹生」に通じるのではないか〕」 →▼荷沢峠寸景 金属のにほひ〔2010年12月12日〕|山猫を探す人II http://okenamay.exblog.jp/23094946/

*30:「加労山(かろうやま)」。山名読みは、山頂の三等三角点の読み「かろうやま(加労山)」に従う。また、次の論文に「荷沢地域の下部石炭系は加労山〔かろうやま〕層(新称)と鬼丸層からなる.」と読みルビがある。 →▼CiNii|「南部北上山地荷沢地域の下部石炭系」(田沢純一板橋文夫、森啓, 1981年) http://ci.nii.ac.jp/naid/110004645392

*31:「三等三角点「加労山(かろうやま)」729.59m」。加労山の山頂にある。点の記; 「基準点コード TR35841633801/冠字選点番号 是21」「所在地: 岩手県気仙郡住田町世田米字小股 小股国有林30林班」。順路: 岩手県立住田高校より北西方約14kmに荷沢峠がある。同峠より樺山林道を東進約2km、さらに南進約1.5kmにて同林道は終点となる。本点は同地点より小径を北進約200m(約10分)の山頂にある。」(明治43年選定・造標・観測、昭和53年更新)

*32:「荷沢峠から加労山の北側を通る林道」。樺山林道(かばやま-りんどう)を指す。樺山林道は火の土林道に接続して長桂寺(住田町下有住高瀬)まで続く。後掲註参照。

*33:「途中で分岐する加労山方面に向かう道(地図では破線)」。樺山林道からの分岐を指す。地図で示せば次の地点。 →▼地理院地図 http://maps.gsi.go.jp/#15/39.202213/141.480539/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0 樺山林道については後掲註参照。

*34:「「新ハイキング」という雑誌の2010年9月号」。株式会社 新ハイキング社発行の雑誌「新ハイキング」2010年9月号(659号)目次に、「[紀行ほか]」として記事「岩手県 加労山、霞露ケ岳、加呂ノ森・・・〔著者:〕梅沢 一行」が見える。 →▼新ハイキング|最新号のご案内:2010年9月号/659号[特集]爽秋の山 http://www.shinhai.net/sale/backnumber/1009no659.html

*35:「宮標石」。前掲註(御料局三角点)参照。

*36:「荷沢峠から奥火の土へ向かう林道」。樺山林道(かばやま-りんどう)を指す。荷沢峠から長桂寺(住田町下有住高瀬)まで続いており、火の土川源流付近で「火の土林道(ひのつち-りんどう)」に接続すると考えられる。Webサイト「林道への案内」に次の解説コメントがある; 「〔「樺山火の土林道」は、〕国道107の荷沢峠と住田町火の土集落を結ぶ林道。/荷沢峠の入り口から少し入ると道標が立っている。火の土側の入り口は国道340にある高瀬橋バス停、もしくは長林寺〔※長桂寺の誤記〕を目印にする。/樺山林道側は幅員は狭く、未除草なので走りにくいうえ、勾配もきつい。所々荒れた箇所がある。樺山林道の区間は7.1kmで、火の土林道〔に〕接続する。/ 火の土林道はとても良く整備されている。火の土林道は国道340と住田牧場〔貞任山〕をつなぐ行止〔行き止まり〕の林道。」 →▼樺山火の土林道|林道への案内板 http://www.rindo21.com/touhoku_kita/iwate_sumita/iwate_kabayamahinotuti/ 同サイトに林道の写真も掲載している。 →▼樺山火の土林道の写真 Ver.1(撮影日:2001/10/08)|林道への案内板 http://www.rindo21.com/touhoku_kita/iwate_sumita/iwate_kabayamahinotuti/photo1/ また、次のブログ記事が2014年現在の同林道現地写真を多数掲載する(「火の土林道入口」「樺山林道入口」の標柱も見える)。国道340号から火の土林道に入って住田牧場に至り、帰りは樺山林道を通って荷沢峠(国道107号)に抜けている。 →▼みちのく〜北上山地紀行〜(四日目)〔2014年08月29日〕|今日も奥多摩あたりで… http://okutamaatari.naturum.ne.jp/e2294538.html 樺山林道から火の土林道への接続地点は、おそらく次の地点。 →▼地理院地図|樺山林道・火の土林道接続地点 http://maps.gsi.go.jp/#15/39.218174/141.490731/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0 なお、次のブログのツーリング記録で、蕨峠から奥火の土に抜ける林道として言及されているのが樺山林道か否か、不詳(おそらく別の林道)。「ルートは万松寺山〜玉里〜米里荒谷〜星座の森〜外山林道〜小友林道〜R107荷沢峠〜〔樺山林道〜〕奥火の土〜〔火の土林道〜〕R340下有住〜蕨峠〜貞任山〜奥火の土〜R107荷沢峠〜草倉林道〜五輪峠〜万松寺山、走行距離は153km、XL125Rの燃費は約33km/lでした。」 →▼蕨峠〜奥火の土に抜けられた〔2011/7/9〕|teamPRISM かつひろの日記 http://blogs.yahoo.co.jp/teamprism1984/69352634.html

*37:「北側の738mピーク」。加労山山頂のすぐ北側に、738mピーク(三角点なし)がある。地図で示せば次の地点。 →▼地理院地図|738mピーク:加労山(住田町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.197923/141.482706/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

*38:「樺山(かばやま)」。山名読み、山頂の三等三角点「樺阪峠(かばさかとうげ)」の読みから類推。

*39:「樺山」。岩手県ホームページが提供する地図PDF「基幹林道 川井住田線位置図2「大萩・蓬畑区間」「日影・蕨峠区間」」の左下部分、「夕日山」の文字の右に「樺山」の文字が見える(「樺山林道」を示す)。地図PDF配布元は次のページ。 →▼岩手県|(お役立ち)基幹林道 川井住田線のお問い合わせ先について http://www.pref.iwate.jp/ringyou/hozen/rindou/015270.html

*40:「三等三角点「樺阪峠(かばさかとうげ)」808.27m」。樺山の山頂、荷沢峠北東の808.3mピークにある。おそらく「樺坂峠」に同じ。点の記に、樺山の山頂に当該三角点があると記載する。点の記; 「基準点コード TR35841635701/冠字選点番号 是9」「所在地:岩手県遠野市小友町26地割151番地」「順路:岩手県立住田高校より国道107号線を北西方約14kmに荷沢峠あり。同峠より樺山林道を東進すること約1.5kmにて樺山に通じる道がある。本点は同道を北進約0.8kmの山頂にある。」(明治43年選点・造標・観測、昭和55年更新) →▼基準点成果等閲覧サービス|三等三角点「樺阪峠」808.27m http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx?lat=39.21067389071245&lon=141.47283439338943&z=15&did=std

*41:「点の記に山名「樺山」と記載」。三等三角点の記「樺阪峠」の「要図(略地図)」に“樺山”の文字を記す。また「順路」項にも「同峠〔荷沢峠〕より樺山林道を東進すること約1.5kmにて樺山に通じる道がある。本点は同道を北進約0.8kmの〔樺山〕山頂にある」とある。

*42:「松峰との間に峠道「樺坂峠」を擁する可能性が高い」。樺山にある峠を樺坂峠と考えることができるが、現在の荷沢峠の別名(あるいは古称)とするWebページも存在する。樺坂峠を荷沢峠とは別の独立した峠と考える場合、樺山の北東、松峰ピークの南、奥火の土開拓地(住田町下有住)付近で樺山林道から北西に分かれ、堂場沢(遠野市)沿いの林道土室線に繋がる峠道(標高717m(三角点なし))があり、この峠が「樺坂峠」にあたると思われる。地図上では次の地点。 →▼地理院地図|717m http://maps.gsi.go.jp/#15/39.219038/141.478307/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0 「荷沢峠」と「樺坂峠古戦場跡」の案内標柱が並ぶ現地写真がWeb上にある。 →▼荷沢峠(にざわとうげ)|峠コレクション http://tougeoyaji.ciao.jp/nizawatouge.htm なお、樺坂峠を荷沢峠の別名と明記するWebページとしては次のものがある; 「■樺坂峠/〔※略〕/ 別名:荷沢峠/ 現在は、住田町と遠野市の境にあり、現在の国道107号線にあり、住田町と遠野市の境界になっている。江戸時代はこの峠が、仙台伊達藩と盛岡南部藩の藩境となっており、現在は住田町と遠野市の境界になっている。/かつては盛街道と呼ばれ、水沢から大船渡に抜ける脇街道の往還路だった。水沢から北上川を渡り、岩谷堂、人首の宿場を経由し、種山の物見山を越えて箕輪山を経て気仙郡に入り、世田米宿から白石峠を越えて盛宿〔大船渡市〕へと通じる。」 →▼樺坂峠〔2015-09-14〕|みちのく悠々漂雲の記/岩手県 http://mitinoku.biz/hist_walk/hist_iwate/?p=976

*43:「世田米川口地区に別の樺山」。次の記事の「樺山/川口樺山」セクション参照。 →▼住田町の「山」(その2):樺山/川口樺山 - atimus's blog http://atimus.hatenablog.jp/entry/2016/09/13/020000#kabayama1

*44:「三角点の点の記には、山名が樺山」。当該の三角点名は「樺阪峠(かばさかとうげ)」。点の記に掲載の地図、また順路解説に“樺山”の名が見える(前掲註参照)。なお、同ブログに三等三角点「樺阪峠」への順路を示した地図画像がある。 →▼〔地図画像:〕「樺山の宮標石」の画像|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201511/img22_1.144643261439807139177.html →▼〔地図画像:〕「四等三角点「松峰」」の画像|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201604/img22_1.146037362868585576177.html

*45:「住田牧場」。貞任山の南斜面に広がる牧場。かつては岩手県肉牛生産公社が経営していた。後掲註(「貞任山」項)参照。

*46:「荷沢峠〔の遠野側〕から東へ向かう林道」。広域基幹林道土室線を指す。地図参照。 →▼地理院地図 http://maps.gsi.go.jp/#15/39.217476/141.452301/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0 林道入口には「広域基幹林道土室線」の案内板があるという。次のブログ記事(後掲)参照。 →▼貞任山〔2011/12/13〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201112/article_4.html

*47:「御料局三角点のある夕日山」。同ブログに夕日山の御料局三角点の実見記がある(前掲)。 →▼夕日山〔2012/06/16〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201206/article_3.html

*48:「宮標石」。ここでは宮内庁御料局が設置した三角点(御料局三角点)ではなく、「宮」の文字が刻まれた「界標(宮界標)」を指す。第二次大戦以前、宮内省設置の界標(境界標)をいう。次のWebページに詳しい。「■御料地の境界標識/ 御料局の境界標石は「界標」とよばれ附属標として「探求標」と「指導標」が1899年(明治32)の御料地境界踏査規程(御料局長達第六五二二號)に定められており「宮」の記号が刻印されています。「宮」のウ冠は広く丸みを帯びており宮内省を意味します。〔※略〕/ 「宮」表示の界標については陵墓や御所、離宮など旧宮内省所有地にも多数見られ現在も境界標識として使用されているものもあります。〔※略〕/ 御料林時代の石標は、山印ではなく宮印が刻んである。旧御料林でも新しく埋設されるものはすべて山印がつけられる 〔参考文献:〕[林野庁:『図説国有林の境界』地球出版 1965〔年〕 p72]/〔略〕」 →▼境界標識/御料地の境界標石|史跡と標石で辿る日本の測量史 http://uenishi.on.coocan.jp/40lib-sonota/q422aagoryou.html 愛知県の宮標石を専門とする次のWebサイトがある。 →▼宮標石倶楽部 http://mikawaya.55street.net/

*49:「ここは界甲エリア」。記号「界甲+数字」を示す宮界標で囲まれた領域。旧御料地の範囲を示す(現在は国有林の可能性が高い)。「やっちゃん日記・山行記録集」に実見した宮界標のリンク集がある。 →▼標石の記録|やっちゃん日記・山行記録集 http://s.webry.info/sp/suuko.at.webry.info/201512/article_3.html

*50:「日門舘」。日門館、日門城(ひかど-じょう)に同じ。住田町下有住の「日門城跡」を指す。加労山の東、鷹取山の南西、火の土川に横川が流れ込む合流点にある。火の土川沿いの火の土林道を遡れば樺坂峠に達することになる。住田町ホームページに位置を示す。 →▼史跡・名勝マップ:日門城跡|住田町 http://www.town.sumita.iwate.jp/kanko/siseki_map.html 『住田町町勢要覧』に次の紹介がある; 「■日門城跡/ 〔住田〕町内・千葉家の系図によって知られた城。慶長6年秋〔1601年秋〕、世田米城の阿曽沼広長が遠野勢の侵入を受け、火の土で迎え戦ったが、この時日門城が大いに役立った。土塁が残っているほか、本丸跡や二つ丸跡と考えられる平場がある。」 →▼PDF:「住田町町勢要覧」|住田町 http://www.town.sumita.iwate.jp/docs/2015020300014/files/H23-all-2.pdf#2 また、以下のブログ記事も参照。 →▼日門城(気仙郡下有住)探訪|「じぇんごたれ」遠野徒然草 http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/000f1283471e981f4396a246e58a207f →▼岩手県住田町下有住 気仙川水系火の土川支流 H鋼に木板の橋1/2。〔2015/10/21〕|水辺の土木遺産 http://blogs.yahoo.co.jp/kyodain/13583612.html 上掲ブログに載せる住田町による現地説明板写真の書き起こし; 「■日門城跡(ヒカドジョウアト)/ この城は気仙二十七城の中に記されてはいないが、千葉家の家系図の中に、「気仙郡下有住村日門城遠図之事写/千葉河内の御系図天正十四年より三十七代也/右印置候事」とあり、この系図によって日門城が知られたわけである。慶長六年(1601)世田米城の阿曽沼広長が気仙勢三千人を引き連れ赤羽根で戦い、秋には遠野勢の侵入を受け、火の土で迎え戦っている。この時日門城が大いに役立ったものと考えられる。城跡に立って見ると、上段には土塁が残っており、三段式に山城の形を作っている。また南面山頂に、50~80平方米の平場があり本丸跡と考えられる。尾根伝いに北面に二か所、二の丸と思える平場もある。/ 住田町」「日門城跡 Hikado Castle Ruins」。なお、『住田風土記』(根来功範, 1971年)に「日門城」を立項。

*51:「堂場沢」。荷沢峠の北(遠野市側)を西流し、長野川に合流して北へ向かう。沢沿いに広域基幹林道土室線が走る。ブログ「南三陸滝見隊」が堂場沢の滝の様子を紹介している。 →▼堂場沢の滝〔2013/05/13〕 http://takimitai.blog.fc2.com/blog-entry-437.html →▼堂場の滝〔2014/07/08〕 http://takimitai.blog.fc2.com/blog-entry-644.html

*52:「樺坂峠は堂場沢から奥火の土へ抜ける鞍部だと思いますが(地形図の717m地点)」。標高717m地点。奥火の土開拓地の西北、三等三角点「樺阪峠」808.27mの北東にあたる。 →▼地理院地図|717m http://maps.gsi.go.jp/#15/39.219038/141.478307/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

*53:「松峰(まつみね)」。山名読みは、山頂の四等三角点の読み「まつみね(松峰)」に従う。

*54:「四等三角点「松峰(まつみね)」778.20m」。松峰の山頂にある。点の記; 「基準点コード TR45841636801/冠字選点番号 K互8」「所在地:岩手県気仙郡住田町火の土奥火の土国有林20林班」「順路:岩手県立住田高校より国道107号線を北西進約14kmに荷沢峠がある。同峠より樺山林道を北東進約4kmにて火の土沢に至る。同沢より小径を北西進約500m(約20分)、さらに南進約300m(約8分)にて頂部に達す。本点は同頂部にある。」(昭和53年新設) →▼基準点成果等閲覧サービス|四等三角点「松峰」778.20m http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx?lat=39.22330348828215&lon=141.47979721668827&z=15&did=std ブログ「やっちゃん日記・山行記録集」に登頂ルートを示した地図画像がある。 →▼〔地図画像:〕「四等三角点「松峰」」の画像〔2016/04/11〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201604/img22_1.146037362868585576177.html

*55:「樺山との間に「樺坂峠」を擁する可能性が高い」。前掲「樺山」セクション参照。

*56:「四等三角点「松峰」」。前掲註参照。

*57:「三等三角点「樺阪峠」」。松峰の南西にある樺山の三角点。前掲「樺山」セクションの註参照。同ブログ、次の記事に山行記録(前掲)。 →▼樺山の宮標石〔2015/11/02〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201511/article_1.html

*58:「「樺阪峠」には宮界標「界甲二七六」が有った」。同ブログの樺山の項に、次の記述がある; 「樺山から下山途中、市町境〔遠野市・住田町境界〕の土塁の手前に見出標があった。〔※略〕見出標から〔樺山〕山頂方向へ約2m、地面が盛り上がった場所を足で探ると、宮標石〔宮界標〕が現れた。南面に「界甲二七六」北面には宮マークが刻まれている。予想どおりここは界甲エリア。御料地で間違いなし。」 →▼樺山の宮標石〔2015/11/02〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201511/article_1.html

*59:「貞任山(さだとうやま)」。山名読み、確証なし。なお、山頂の三角点の読みは「二等三角点・貞任(さだとう)」。

*60:「二等三角点「貞任(さだとう)」883.49m」。貞任山山頂にある。点の記; 「基準点コード TR25841638801/冠字選点番号 秋5」「所在地:岩手県気仙郡住田町下有住字火の土198番地の61」「自動車到達地点:住田牧場ゲートより作業道を2.8km進んだ地点/ 歩道状況:道なし/ 徒歩時間(距離):約1分(約10m)」「三角点周囲の状況:牧草地」。(明治40年埋標、平成11年「握」とある。) →▼基準点成果等閲覧サービス|二等三角点「貞任」883.49m http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx?lat=39.236472750983104&lon=141.48664121330268&z=15&did=std

*61:「住田牧場」。貞任山の南斜面に広がる牧場。 →▼(Facebook)住田牧場跡 https://www.facebook.com/pages/%E4%BD%8F%E7%94%B0%E7%89%A7%E5%A0%B4%E8%B7%A1/198758663588295 かつては社団法人岩手県肉牛生産公社(1968年5月設立、2006年3月解散)が経営していたが、1997年(平成9年)以降は休止していたという; 「住田〔住田牧場(貞任山南斜面)〕、それから住田第2〔住田第二牧場〕につきましては、それぞれ平成9年〔1997年〕、平成14年〔2002年〕から休止した状態になってございます。」 →▼平成18年1月19日 出資法人等改革調査特別委員会会議記録|岩手県議会 http://www2.pref.iwate.jp/~hp0731/iinkaikaigikiroku/1801heikai/180119shussi.html なお、「住田第二牧場」は種山(物見山)の南にあった。次の記事も参照せよ。 →▼岩手県住田町の牧羊業:住田第二牧場 - atimus's blog http://atimus.hatenablog.jp/entry/2013/01/16/000000#dainibokujou

*62:「四等三角点「名古峰(なごみね)」771.95m」。貞任山の南東、男火山との中間にある。東麓・西麓から横川が源流する。点の記; 「基準点コード TR45841637901/冠字選点番号 K互7」「所在地:岩手県気仙郡住田町下有住字火の土198番の5」「順路:岩手県肉牛生産公社住田牧場事務所より作業道を進むこと約3.4kmに小径あり.本点は同小径を南東進約0.6km(約15分)にある。」(昭和53年新設) →▼基準点成果等閲覧サービス|四等三角点「名古峰」771.95m http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx?lat=39.22687939651026&lon=141.49556622151155&z=15&did=std

*63:遠野市に同名の別の貞任山(886m、三角点なし)」。遠野市土淵町の貞任山(886m)は、六角牛山(遠野市)の北方に位置し、遠野市釜石市の境界をなす。住田町境界の「南の貞任山」に対して「北の貞任山」とも呼ばれる。 →▼貞任山 - 遠野市/山:マピオン電話帳 http://www.mapion.co.jp/phonebook/M07003/03208/L0580908/ →▼地理院地図|貞任山 886m(遠野市http://maps.gsi.go.jp/#15/39.392610/141.662843/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

*64:「〔貞任山への登頂は〕「やっちゃん日記」では北側のルートですが」。ブログ「やっちゃん日記・山行記録集」記事(後掲)を参照。 →▼貞任山〔2011/12/13〕|やっちゃん日記・山行記録集 http://suuko.at.webry.info/201112/article_4.html

*65:「火の土地区から貞任山に至る林道」。火の土林道を指す。

*66:「蕨峠」。

*67:「三三九度岩」。さんさんくど-いわ。貞任山の南斜面、岩手県気仙郡住田町下有住奥火の土にある。 →▼三三九度岩 - 気仙郡住田町|マピオン電話帳 http://www.mapion.co.jp/phonebook/M07008/03441/L0641478/ なお、三三九度岩を訪ねてたどり着けなかった記録がWeb上に散見される。わかりにくい場所にあるのかもしれない。 →▼遠野、寺沢高原、仙人峠、釜石 陸中大橋/2012年5月17日|北東北ドライブ・ツーリングレポート http://rockeagle3.web.fc2.com/turingrepo/iwate/20120517toono-kamaisi/index.htm →▼こんな日もあるさ/火の土川の滝〔2015/05/11〕|南三陸滝見隊 http://takimitai.blog.fc2.com/blog-entry-744.html

*68:「〔貞任山〕山頂の北側を林道が通っている」。広域基幹林道土室線を指す。蕨峠を越える岩手県道238号(基幹林道川井住田線)から荷沢峠近くまで遠野市側を走っている。岩手県ホームページが提供する地図PDF「基幹林道 川井住田線位置図2「大萩・蓬畑区間」「日影・蕨峠区間」」の左下部、貞任山の西に「〔林道〕土室3号」、北側に「〔林道〕土室2号」の文字が見える。PDF配布元は次のページ。 →▼岩手県|(お役立ち)基幹林道 川井住田線のお問い合わせ先について http://www.pref.iwate.jp/ringyou/hozen/rindou/015270.html

*69:「〔貞任山の〕南側の林道」。火の土林道を指す。火の土林道は、国道340号から住田牧場(貞任山)を結ぶ行き止まりの林道という。次のWebページ参看;  「樺山林道の区間は7.1kmで、火の土林道〔に〕接続する。/ 火の土林道はとても良く整備されている。火の土林道は国道340と住田牧場をつなぐ行止〔行き止まり〕の林道。」 →▼樺山火の土林道|林道への案内板 http://www.rindo21.com/touhoku_kita/iwate_sumita/iwate_kabayamahinotuti/ 前掲註も参照。

*70:「北側は物見山の山頂部分」。貞任山山頂からの眺望で言及されるこの「物見山」は、種山ヶ原(種山高原)の物見山ではなく、貞任山の北北東に位置する遠野市遠野町の物見山(916.5m)(六角牛山の西方)を指す可能性もある。 →▼物見山 - 遠野市遠野町/山:マピオン電話帳 http://www.mapion.co.jp/phonebook/M07003/03208/L0583504/ →▼地理院地図|物見山 916.5m(遠野市遠野町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.294238/141.510451/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

*71:「三等三角点「女ビ山/女𨫤山(めんびやま)」852.20m」。女火山の山頂にある。点の記; 「基準点コード TR35841646001/冠字選点番号 是20」「所在地:岩手県気仙郡住田町下有住字奥火の土198番地の5」「順路:岩手県肉牛生産公社住田牧場事務所より蕨峠に至る作業道を北西進約1.5kmさらに北東進約2.0kmにT字路あり 同T字路南方約1.2kmに男火山がある。同山を経て進むこと約0.7km(約20分)にて女火山に達する。本点は同山山頂にある。」(明治43年選点・造標・観測、昭和53年更新) →▼基準点成果等閲覧サービス|三等三角点「女ビ山」852.20m http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx?lat=39.21759120266728&lon=141.51005491855582&z=15&did=std

*72:「長桂寺」。ちょうけい-じ。住田町下有住字高瀬145。火の土林道の入口が近い。 →▼十六番札所 長桂寺(ちょうけいじ)/聖観世音菩薩|祈りの道 気仙三十三観音再興プロジェクト http://kesenkannon.jimdo.com/%E5%90%84%E9%9C%8A%E5%A0%B4%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E5%8D%81%E5%85%AD%E7%95%AA%E6%9C%AD%E6%89%80-%E9%95%B7%E6%A1%82%E5%AF%BA/ 住田町ホームページに次の紹介がある; 「■玉桂と長桂寺/ 天文23年(1554年)一翁舜嶽大和尚により開基、近くの大きな桂の木にちなんで長桂寺と名付けられました。一度、落雷で倒れたものの根から数十本の新しい芽を伸ばし、遠くからは玉のように見えたので「玉桂」に。樹齢800年以上。」 →▼史跡・名勝|住田町 http://www.town.sumita.iwate.jp/kanko/siseki.html

*73:「横川」。男火山の西、名古峰に源流し、女火山の西麓を南へ下って火の土川と合流、住田町下有住高瀬で気仙川に注ぐ川。地理院地図に川の名が見える。 →▼地理院地図|横川(住田町) http://maps.gsi.go.jp/#15/39.212488/141.503348/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0 林道「横川金沢林道」(あるいは横川林道と金沢林道か)がある。「〔■林道名:〕横川金沢林道/ 〔■路面状況及び情報(最終更新日):〕住田町、県道238号のワラビ峠を南に下り2.9k右のオンに林道の標識がある。金沢地区でこの林道も長く、この近くに男火山林道や女火山林道がありそうで詰めると峠を経て下り横川地区に下ってしまう。横川地区から下ってT字路にバス停火の口〔※バス停「火の土公民館」の誤り〕があった。このT字路を右に行ったら何か有りそうだったが時間が無くパス。バス停から2.6kで国道340号のバス停高瀬橋〔岩手県交通株式会社 盛岡大船渡線〕に出る。データは金沢からバス停火の口〔火の土公民館〕まで!/ 〔■距離(オフ):〕12.8k(10.7k)/ 〔■レベル(1〜5):〕3〜4」 →▼岩手中部・エリア|私の林道マップ・岩手県編|東北・北部|ナベキンの林道アラカルト http://nabekinn.web.fc2.com/iwatetyuubu.htm 住田町コミュニティバス・川口上有住駅線のバス停「火の土公民館」は、バス停「横川」の南のT字路にある。 →▼火の土公民館 | バスマップ http://busmap.info/busstop/21900/

*74:「北隣の谷間を通る県道238号」。岩手県道238号・遠野住田線。蕨峠(わらび-とうげ)がある。起点:遠野市綾織町新里(国道283号交点)、終点:住田町下有住字十文字(国道340号交点)。 →▼岩手県道238号遠野住田線 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%89%8B%E7%9C%8C%E9%81%93238%E5%8F%B7%E9%81%A0%E9%87%8E%E4%BD%8F%E7%94%B0%E7%B7%9A

*75:金沢浄水場。「住田町地域水道ビジョン」(平成21年6月)に下有住地区の浄水場として見える。 →▼上下水道のご案内|住田町 http://www.town.sumita.iwate.jp/docs/2015022400613/

*76:鷹取山(たかっとやま)」。山名読み、国土地理院地図にルビがある。金野茂男氏(小山工業高等専門学校)による鉱山探査記PDF掲載の地形図(国土地理院地図)にも読みルビが見える。「〔地図の〕中央の鷹取(たかっと)山の上の赤丸あたりが松森鉱山跡である。」 →▼PDF:(130)岩手県住田町奥新切(おくにぎり)の松森鉱山〔2013年8月〕|鉱山探査記|金野研究室 http://kinno-homepage.sakura.ne.jp/mineral/matumori.pdf

*77:鷹取山。山頂に三角点はない」。周囲には、北方に四等三角点「奥新切(おくにぎり)」405.17m、西方に四等三角点「尻高(しりたか)」581.87m、南方に三等三角点「矢口山(やぐちやま)」573.09m がある。

*78:「松森鉱山跡」。鷹取山の北側に、石榴石を産する松森鉱山があった。「〔地図〕中央の鷹取(たかっと)山の上の赤丸あたりが松森鉱山跡である。現地への経路は住田町側からを説明しているが、この地図からわかるように、遠野方面からでもたどり着ける。」 →▼PDF:(130)岩手県住田町奥新切(おくにぎり)の松森鉱山〔2013年8月〕 http://kinno-homepage.sakura.ne.jp/mineral/matumori.pdf PDF配布元は次のWebページ。 →▼kinno lab. official homepage〔金野研究室/小山工業高等専門学校〕|鉱山探査記 http://kinno-homepage.sakura.ne.jp/kinno_mineral.html

*79:「〔鷹取山の〕南方約2kmにある573.8m峰」。2016年現在の国土地理院地図の三角点573.1mピークを指す。山頂に三等三角点「矢口山(やぐちやま)」573.09mがあり、点の記に「俗称 知長峰」とある。点の記; 「基準点コード TR35841642301/冠字選点番号 是26」「所在地:岩手県気仙郡住田町下有住字中上246番地の2/ 俗称 知長峰」「順路:住田町立下有住小学校より国道340号線を南西進約0.5kmに梶原文吉宅あり 同宅北側より小径を尾根をめざし登ること約1.0km(約50分)にて尾根に達し、さらに西進すること約0.4km(約10分)にて山頂に達する。本点は同山頂南端にある」(明治43年選点・造標・観測、昭和53年更新) →▼基準点成果等閲覧サービス|四等三角点「矢口山」573.09m http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx?lat=39.19112536347061&lon=141.54460417143264&z=15&did=std

*80:「紙の地形図では実線が破線に変わる場所(分岐あり)」。鷹取山山頂の南東、地図上ではおそらく次の地点か。 →▼地理院地図 http://maps.gsi.go.jp/#16/39.202304/141.555061/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

*81:「Vorsprung durch Technik」。ドイツの自動車メーカー「アウディ社(Audi)」のキャッチフレーズ。次の解説がある; 「このアウディ社のモットーはVorsprung durch Technik(フォアシュプルング ドゥルヒ テヒニク)。Vorsprungはspringen(シュプリンゲン/跳躍する)の名詞形Sprungに前つづりvor(前へ)が付いたもので、「技術による(durch Technik)先進」という意味になります。」 →▼ドイツ車マニアのためのドイツ語講座〔2013年12月05日〕|All About http://allabout.co.jp/gm/gc/435393/ Wikipedia英語版に立項。 →▼Vorsprung durch Technik - Wikipedia, the free encyclopedia https://en.wikipedia.org/wiki/Vorsprung_durch_Technik

*82:「あかりんさんのブログ記事を見ると、山頂に標石」。 次のブログ記事(前掲)の「山頂」とキャプションを付した写真に苔むした標石が写っている。→▼鷹取山 597m 2012年10月20日|あかりんの岩手低山奇行 http://akarin-yama.at.webry.info/201210/article_33.html →(画像jpeghttp://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/005/231/89/N000/000/008/135073768278113214420_IMGP2986.jpg

*83:「橘内屋敷跡」。未詳。橘内(人名。金売り吉次の弟という。後掲註参看)の屋敷の跡地。下有住奥新切にあるという。次のブログ記事が、「金売り吉次の弟が住田町の新切や火の土にいた」と伝える地元の「朝日長者伝説」に言及する; 「そんな〔黄金の鶏が埋まっているという〕金鶏山の入り口にあった立て札を読んでみると…なにやらどこかで聞いたことのあるような古歌が… 『朝日さし 夕日輝く木の下に 漆萬盃 黄金おく…』 なんて詠み人知らずで書かれておりましたが、住田町の下有住地区の火の土に残る朝日長者伝説にも 『うるし千杯、黄金千杯、黄金の鶏ひとつがい♪ 朝日さす 夕日輝く木の下に 誰が掘るやらお宝を♪…』 って歌があるそうです。おお!黄金伝説がつながっていますね!その昔、金売り吉次の弟〔橘内〕が住田町の新切や火の土にいたという伝説が残っておりますが…」 →▼平泉をウォーキング〔2006年10月24日〕|もさばSUMITA好いネット管理人の日記 http://sumitayoi.seesaa.net/article/26075500.html

*84:「ヨシウチ金山跡」。未詳。漢字表記は「吉内金山」と思われる。下有住奥新切の金山という。Web上での言及として、たとえば以下のもの; 「すぐ東の住田町境を越えると男火山、女火山、火の土、奥火の土など鉱山に関連する地名があり、わくわくする。奥新切には金売り吉次の弟の吉内〔橘内〕が営んだ吉内金山があったとされる。」 →▼金山の里・遠野市小友町〔2012年8月2日〕|三陸ゴンパチ358 http://sizyuuhatisaka358.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html 「気仙地方というと、奥州藤原氏を支えたと云われる、たくさんの金山跡が集中しています。/ 住田町世田米には野尻金山という戦後まで金鉱石を発掘していた金山跡があります、その他に吉内金山という有名な金売り吉次の弟吉内〔橘内〕が経営していたと思われる金山跡もあります。/ 昭和30年代に行った、中尊寺金色堂の大修理のとき、修理前の金色堂の金が野尻金山出土の金と同質であることが、調査研究でわかったことが公表されたそうです。」 →▼気仙郡に残る足跡〔2010/1/3〕|奥羽*温故知新 https://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/23325522.html 「・荒覇吐神社 安倍氏の守護神。地元では「旅の神・軍の神」として崇められて(奥州市伊手) おり、義経一行が吉内金山を」離れるとき訪れたといわれています。(義経北行上 P202 ツーワンライフ出版)/ ・阿闍羅淵 この淵を登るために義経が手をかけたといわれる「判官手がけの松」、(住田町上有住) 弁慶が軍資金を積んだ牛車を牛車ごと押上げ、崖を登ったときの足跡だといわれる「弁慶の足跡」が残されています。(義経北行上 P202 ツーワンライフ出版)」 →▼南部編第5話 源義経伝説 ~源義経北行伝説~〔2013.12.05〕|青森の歴史街道を探訪する http://rekisi-kaido.owl-aomori.com/?eid=119

*85:「橘内 (橘次の弟)」。読み、不詳。いわゆる金売吉次(橘次信高/吉次信高/橘次末春)の弟という。「吉次の弟“吉内”」との表記もWeb上に見える(前掲註「吉内金山」参看)。なお、金売吉次は三兄弟の長兄とする伝承がある。たとえば; 「その社〔金田八幡神社宮城県金成町)〕に伝わる古文書「奥州栗原郡三迫金成村熊野三所宮」(延宝三年(一六七五年)八幡山金田寺現住職 承栄 記:佐藤〔※ページ管理者〕解読)には、次のようなことが記されている。/ 『(前略)奥州栗原郡金田荘金生村(古くは神生村、俗書には神成の後に金生と改め現在に至る)/ 東館住(古くは金田城、今俗に戸館と云う)金売橘次信高の両親は、裕福で知恵の優れた男児を授かろうとして、紀州熊野三所大神を常日頃信心していると、ある夜熊野の神様が母の夢に立たれて、三つの紅色の橘(みかん)をくだされた。すると母は即座に子を孕まれて、三人の男児を生まれた。長男は橘次〔金売吉次〕、次男は橘内、橘六と云った。』」 →▼金売吉次伝説を探る〔2001.8.23/2001.9.7〕 http://www.st.rim.or.jp/~success/kaneuri_kitiji.html 「金売吉次(かねうりきちじ)とは平安時代末期の商人。吉次信高、橘次末春とも称される。『平治物語』『平家物語』『義経記』『源平盛衰記』などに登場する伝説的人物。奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、源義経奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けしたとされる。」 →▼金売吉次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A3%B2%E5%90%89%E6%AC%A1

*86:「地主大明神」。未詳。下有住奥新切の「橘内屋敷跡」に祀るという。

*87:「荒覇吐神」。アラハバキ。荒脛巾神とも。「アラハバキは、日本の民間信仰的な神の一柱である。/現在、公的な観光案内類を含め、源流を辿ると偽書である『東日流外三郡誌』に由来する記述が見られることがあり、非常な注意を要する。」 →▼アラハバキ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%90%E3%82%AD なお、住田町世田米川口に「荒脛神社」がある。次の記事の「樺山/川口樺山」セクション参照。 →▼住田町の「山」(その2):樺山/川口樺山 - atimus's blog http://atimus.hatenablog.jp/entry/2016/09/13/020000#kabayama1