住田町の縄文時代:蔵王洞窟遺跡、湧清水洞窟遺跡
▽岩手県気仙郡住田町(すみたちょう)にある縄文時代の洞窟遺跡について、「蔵王洞窟遺跡(蛇王洞洞穴、蔵王洞岩窟)」(上有住葉山。遺跡コード MF96-2121)、「湧清水洞窟遺跡」(世田米上城。遺跡コード NF17-0013)を中心にWeb上の情報をクリップする。(※「遺跡コード」は、後掲「岩手県遺跡情報検索システム」による。)
▼史跡・名勝1 - 観光 : 住田町 http://www.town.sumita.iwate.jp/kanko/shiseki/siseki01.html
▽「7. 蔵王洞窟遺跡(ざおうどうくついせき)/ 縄文早期〜晩期までの古代先住民族の住居跡。数度にわたる発掘調査で横穴式住居跡、副室などが確認された。出土品も多く、尖頭底土器をはじめとする土器には独特の「蔵王紋式」があり、蔵王文化の中心をなしていたと思われる。」 ※「蔵王文化」「蔵王紋式」について詳細不詳。
▽「10. 湧清水洞窟遺跡(わきしみずどうくついせき)/ 横穴式洞窟で、数千年前の縄文早期から晩期にかけての住居。昭和48年〔1973年〕、地元の若者たちが洞窟内で人骨を発見。その後の本格的調査で28体分の人骨を採掘した。大歯〔犬歯?〕が抜かれており、大人の仲間入りの儀式があったと考察される。」
▽蔵王洞窟は、住田町上有住葉山にある。母衣下山(ほろし-やま)の南麓、国道340号(世田米街道)北側に面する。現地には案内板があり、Googleストリートビューで確認できる。
▼Googleストリートビュー|蔵王洞窟遺跡(住田町上有住)*1 https://goo.gl/maps/yqfvndBaShu
▼蔵王洞岩窟と周辺の情報:岩手県住田町上有住葉山61付近|地域情報onMap http://sites.onmap.jp/g-1/fp-143062/
▼蔵王洞穴/蛇王洞穴:遺跡ウォーカー http://www.isekiwalker.com/iseki/88610/
▽「■蔵王洞穴/蛇王洞穴/ ○ふりがな: ざおう/じゃおう/ ○時代: 〔※空欄〕/ ○所在地: 岩手県気仙郡住田町上有住葉山64-1/ ○緯度経度: 〔※空欄〕」
▽「○遺構概要: 洞窟。県調報106 石灰岩洞窟-縄文(早期+後期+晩期)-遺構不詳。標高160m/比高差7.6m。<立地> 国道の傍らに標柱と案内板。<規模> 幅10/奥約4/高2m。<残存状況> 良好。/ ○遺物概要: 県調報106 縄文土器(押型文+蛇王洞II式+明神浦III式+大寺I式+槻木I式+船入島下層式)+動物遺存体(骨片+歯)。 <資料保管> 東北大学/岩手県立博物館/大船渡市立博物館。/ ○発掘概要: 1922年-松本彦七郎、1924年-柴田常恵、1964年-洞穴遺跡調査特別委員会(芹沢長介)」
▽「○その他概要: LCd2/ON1492/PN1266/。<25000分の1地形図>NJ-54-14-5-4、陸前八日町。<全国遺跡地図番号>38-82。 松本彦七郎「陸前國既氣仙群蛇王洞窟の石器時代遺跡」『人類学雑誌』42-2(1927)、草間俊一・吉田義昭『考古学提要』(1953)、 日本考古学協会洞穴遺跡調査特別委員会『日本の洞穴遺跡』(1967)、東北大学文学部『東北大学文学部考古学資料図録』1(1982)、 高橋信雄ほか『昭和58年度第2回企画展”石灰岩”展示図録』(1983)、 濱田宏ほか「考古III小田島コレクションその2」『岩手県立博物館収蔵資料目録』11(1995)、『住田町史』1(1997)、 県教委『岩手の洞穴遺跡』(岩手県文化財調査報告書106、2000)」
▼蛇王洞洞穴遺跡|東北地方から発見された古人骨|東北大学総合学術博物館 http://www.museum.tohoku.ac.jp/exhibition_info/mini/1998SE/page04.html
▽「縄文時代早期/ ■蛇王洞洞穴〔蔵王洞窟〕出土の人骨(縄文時代早期)/ 岩手県気仙郡住田町上有住葉山に所在する。北上山地の南部に位置する石灰岩の洞穴遺跡である。大正の終わり頃〔1922年か〕、松本彦七郎博士の調査によってこの洞穴から屈葬〔くっそう〕した一体分の成人女性の人骨が発見された(写真1,2)。昭和39年〔1964年〕には芹沢長介・林謙作両氏が再発掘をおこない、洞穴の堆積層が縄文時代早期のものであることが確かめられた。人骨には四肢骨が繊細であると言った、‘コンパクト’な〔縄文〕早期人の特徴があらわれている。」
▽「〔写真:〕1. 蛇王洞洞穴出土人骨: 発掘された骨の全部/ 2. 蛇王洞洞穴出土人骨: 頭骨/ 3. 蛇王洞洞穴: 洞穴の入口部。地元〔住田町〕では蔵王洞と呼ばれている。(写真3:岩手県立博物館提供)」 ※出土人骨写真あり。
▼626) 私的岩手通史の旅 縄文時代1〔2010年01月24日〕 | 「居酒屋 ごじゃ満開」 http://plaza.rakuten.co.jp/don10ya60/diary/201001240000/
▽「〔※略〕/ ■縄文時代1 蔵王洞窟(住田町)/ 私的岩手通史の旅、前回、紀元前約2万年の「金森遺跡(一関市)」をご覧いただきましたが、時代が下って紀元前1万年になると気候が温暖になり縄文時代へ入ります。縄文時代というのは〔紀元前1万年頃から〕紀元前300年頃までを指すようで、この約1万年の間は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期と〔6期に〕分けられますが、代表的なのは土器の使用でしょう。最初はシンプルだった形や文様が時代を下るにつれて複雑に変わっていったそうです。」
▽「縄文時代の遺跡といえば青森県の「三内丸山遺跡」が有名ですが、岩手県にも縄文時代の遺跡は結構あるそうです。そのうちのひとつが本日ご覧いただく住田町の「蔵王洞窟」です。遠野から陸前高田に向かう国道430号線〔※国道340号の誤り〕と住田町上有住地区からの道の交差点付近にあります。」
▽「洞窟前の道路から見下ろすような場所を気仙川が流れていますが、その昔は水位が高かったのでしょう。蔵王洞窟は気仙川の浸食によってできた、間口12メートル、奥行4メールの洞窟です。縄文人というと竪穴式住居を連想しますが、このような天然の洞窟を住み家とした人もいたのでしょう。/ 人骨も発見されていますが、それよりも尖底土器(炉のそばに刺して使用する土器)には独特の文様があり、「蔵王紋式」とも呼ばれています。/ 〔※写真〕(古くから発掘調査された蔵王洞窟 ―住田町上有住 H20〔2008〕.6.23―)/ ところで私は「蔵王洞窟」と書いてきましたが、資料によっては「蔵王洞穴」〔蛇王洞洞穴〕となっています。洞窟は「山丘の斜面や崖に開いた横穴」を言い、洞穴は「奥行が比較的浅い物」だと、愛用の国語辞典にはありました。/ 〔※略〕」
▼-norichin@web-|洞窟探検|蔵王洞窟〔2005.11.22〕 http://www5a.biglobe.ne.jp/~norichin/5doukutu/list12/zao.htm
▽「蔵王洞窟(蛇王洞洞穴)/ 日にち: 2005年8月13日(土)/ メンバー: のりちん、ゆみちん」「ホントは、安家洞〔あっかどう。岩手県岩泉町〕と、以前奥まで行けなかった氷渡洞〔すがわたりどう。岩泉町〕へ行きたかったのだが雨降りが続いたので、また地下水が増水してるだろうと思い別の場所を探した。岩手県の地図を見てたら、、、ありました! ゆみちんの温泉旅館でのんびりしたい!という要望を考慮して二泊三日で岩手県内をウロウロした。」
▽「〔蔵王洞窟は〕関谷洞窟〔大船渡市日頃市町〕から〔国道〕107号線を西へ進み、〔国道〕340号線を北上し気仙郡住田町上有住にある。こちらも道沿いにあり、脇見運転する人でなければ発見は難しい。」「〔写真:〕ガードレール脇にある/ 〔写真:〕「蔵王洞窟」の標柱/ 〔写真:〕中は小さな祠しかない/ 中は埋められていて「入る事」を拒んだ状態だ。下〔に掲載した現地〕の案内文では、所謂、「蔵王文化」からこの洞窟の名前が決まったようだが、〔考古学上の〕別名(本名?)蛇王洞洞穴という名前が一言も載ってない。折角なんだからもう少し詳しく書いてくれると嬉しいんだけどナ。」
▽現地案内板写真より: 「蔵王洞窟遺跡: 蔵王洞窟は縄文早期(七千年~六千年前)から晩期(三千年~二千年前)までの、古代先住民族の住居跡である。/ 大正十一年〔1922年〕東北大学松本〔彦七郎〕教授等の調査により、人骨、土器、石器片、獣骨等を採集し、縄文早期の横穴式住居跡と確認された。/ 又、大正十三年〔1924年〕内務省史跡調査官栄田博士が再調査し、縄文早期より晩期に至り、住居として利用された事が出土品により明らかになった。/ 更に昭和四十二年〔1967年〕九月には東北大学芹沢〔長介〕教授等が五日間にわたって発掘調査中、奥深くに副室を発見、土器片、石器、獣骨、貝殻を発掘採集している。/ 土器には、尖□〔頭?〕底土器〔尖底土器〕をはじめ、独特の「蔵王紋式」がありこの洞窟に居住していた先住民族は「蔵王文化」の中心をなしていた。/ 洞窟より出土の縄文遺物は東北大学考古学資料室に保存されている。/ 住田町」 ※写真上の判読困難部分は推定
▽「住田町史の第一巻第二編〔考古編〕の第八章にある 考古学上の報告書及び史料紹介のページを読めば詳しく書いてありそーなんだけど、生憎手元にないのが残念。」
▽※芹沢長介氏らによる蔵王洞窟(蛇王洞洞穴)調査の報告3点が、後掲「岩手県発掘調査報告一覧」(2012年, 岩手県 埋蔵文化財センター)のNo.714-716に見える。ただし、一覧ではいずれも調査年を1967年(昭和42年)ではなく1964年(昭和39年)としている。なお調査報告の公表年は、1965年、1967年(昭和42年)、1969年。
▼もさばSUMITA好いネット管理人の日記: 8月10日は道の日〔2006年08月10日〕 http://sumitayoi.seesaa.net/article/22500415.html
▽「道の日ってなんじゃらほい?そう思いつつもメンバーのHさんに誘われたのでこの日〔2006年8月10日〕に開催された道の日イベント「気仙歴史の道を歩いてみよう」に参加してきました。どうやらこのイベント、今回で13回目を迎えるそうで今年は、住田町世田米から上有住を通る高田遠野街道の「大畑峠」〔東峰山〕にスポットライトをあてたようです。/ 〔※略〕/ 葉山の「めがね橋」から続いてのチェックポイントである「蔵王洞窟」にむかって歩いたのですが、参加者の中で気になる黄緑色のTシャツを着たお姉さん達を発見!/ 〔※略〕/ さてさて、続いてのチェックポイント「蔵王洞 (蛇王洞窟)」です。こちらでは小学生の頃によく頭をポカリと愛の鞭をふるってくれた松田え〜ぞ〜先生*2が洞窟の説明をしてくれました。/ なんでもこの洞窟からは縄文時代早期の石器や土器などが多数発見されたそうです。資料によると奥行きは3.6mと非常に浅いものなんだそうですが、え〜ぞ〜先生曰く「もっとずっと深いんだ!」だそうです。/ 東北大学によって調査されたみたいで、発見された土器や石器は東北大学に行くと見せてくれるそうです。/ 蛇王洞窟を過ぎると最終目的地である「住田町民俗資料館」に到着しました。この民俗資料館はもともとは木造の小学校だったものを移築して現在の場所に建て直して資料館にしました。/ 〔※略〕」
▼岩手の洞穴遺跡〔『岩手の文化財調査報告書 第106集 : 岩手の洞穴遺跡』, 2000年3月〕 - 全国遺跡報告総覧|奈良文化財研究所 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/63041
▽「■(6)気仙地区の概要/ 気仙地区は本県の南東部に位置する。太平洋に面した大船渡市(186.03km2)、陸前高田市(232.19km2)、三陸町(137.13km2)、と内陸に位置する住田町(334.83km2) の二市二町(旧気仙郡)からなり、合計面積は 890.18km2 で本県全体の1割弱を占めている。/ 各市町の遺跡数は大船渡市 95(うち洞穴遺跡4)、陸前高田市 221(8)、三陸町 56(現在のところ洞穴遺跡は確認されていない)、住田町 100(〔うち洞穴遺跡〕7)である。/ 今回の調査では、周知の洞穴遺跡及びケービングクラブなどの調査報告書中に遺物と思われる記述のある洞穴を中心に踏査を行った。なお、洞穴遺跡および遺跡の可能性の高い洞穴が確認されていない三陸町については調査を行わなかった。」
▽「洞穴遺跡は、大船渡市では盛川の支流鷹生川沿いと上坂本沢、陸前高田市では気仙川の支流で中平川と生出川が合流する矢作川沿いと生田川沿い、住田町では気仙川沿いと合地沢、中沢川沿いの石灰岩露頭に所在している。標高では 50-300m の範囲に位置し、川との比高差は知り得た洞穴で 4-30m の範囲であった。開口部は幅 1-15m、高さ 1-10m の規模で、北に開口する洞穴が多い。/ 出土遺物は土器(縄文土器が多い)、石器、動物遺存体などがある。動物遺存体ではイノシシ、シカ、貝類が多く、貝類のほとんどが海産種であった。この傾向は住田町の小松洞窟にも見られ、内陸部まで海産種が持ち込まれている(魚骨についても同様である)。」
▽「本地区の洞穴遺跡研究は、大正末期から昭和初期にかけて人骨研究を主目的として行われた本地区の貝塚調査の歴史と共にある。大正11年〔1922年〕の松本彦七郎による住田町蛇王洞窟の調査をはじめ、大正13年〔1924年〕の柴田常恵、小田島禄郎による住田町蛇王洞窟、陸前高田市女神洞窟、大船渡市関谷洞窟の調査、大正14年〔1925年〕の大山柏、小金井良精、八幡一郎らによる岩手県南部の洞穴調査(陸前高田市木戸口蠣璃穴、同女神洞窟、大船渡市関谷洞窟)がある。これらの調査内容については人類学雑誌などに若干の報告が見られるのみで、詳細な内容についての報告はされていなかったが、昭和9年〔1934年〕大場磐雄によってその概要が報告されている。この中には関谷洞窟の外観写真及び実測図、女神洞窟の実測図及び層位図と出土した土器、骨角器の写真などが記述と共に掲載されている。特筆すべきは女神洞窟出土の扶入離頭錆で、時期は不明であるが土師器に伴なう遺物と思われ、平安時代頃と推定されている。本資料は本県においてこの時期の錆としては唯一のものである。/ 昭和初期から昭和39年〔1964年〕の「蛇王洞II式」の設定がなされた芹沢長介、林謙作らによる蛇王洞窟の調査が行われるまで本地区での洞穴調査は行われていないが、この間、関谷洞窟が昭和32年〔1957年〕に県史跡として指定されている。昭和40年代に入り、昭和43年〔1968年〕の後藤勝彦、及川洞、山口興典らによる関谷洞窟の調査、昭和46年〔1971年〕住田町教育委員会による湧清水洞窟の調査が相次いで行われている。関谷洞窟の調査では、縄文時代早期中頃の貝殻文尖底土器にはじまる最下層から弥生土器・土師器・須恵器に至るまでの最上層まで9層の文化層が確認されている。また、湧清水洞窟の調査では27体もの縄文時代後期の埋葬人骨が確認されている。/ 平成に入り、平成7年-10年〔1995年-1998年〕の4ヶ年にわたり岩手県立博物館による小松洞穴の調査が行われている。この調査では、動物遺存体の定量的分析が行われ、本地区の内陸部における食料資源利用の一端が明らかになろうとしている。/ 本地区の洞穴遺跡は、貝塚にみる沿岸部の生業活動と内陸部のそれを比較する上で重要であり、今後の科学的分析によるデータの集積、研究が待たれるところである。」
▼PDF:「東北歴史博物館研究紀要」第17号(2016.3) http://www.thm.pref.miyagi.jp/media_files/cms/upfile/824/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%8117%E5%8F%B7.pdf#25
▽相原淳一「宮城県における薄手無文字土器の再検討 :宮城県蔵王町上原田遺跡・明神裏遺跡」 「IV 考察/ (1)林謙作の論理構成/ 1961年5月の上原田遺跡・6月の明神裏遺跡の調査を踏まえ、林はこの年の〔1961年〕12月に修士論文を提出し、翌年〔1962年〕の10月に考古学研究会から「東北地方早期縄文式文化の展望」(林謙作 1962)を発表した。無文土器の詳細については『東北考古学』第3輯に公表を予告したものの、『東北考古学』は休刊となり、公表されることはなかった。その後、1964年にはより確実な分層発掘となった岩手県蛇王洞洞穴遺跡の調査(芹沢長介・林謙作 1965)を経て、「縄文文化の発展と地域性 東北」(林謙作 1965)としてその成果はまとめ上げられた。特に「薄手無文土器」に対する林の基本的な評価は上原田・明神裏遺跡の調査研究でほぼ固まっており、そうした見解が蛇王洞洞穴の報告や以後の論文に生かされている。ここで、林の上原田・明神裏遺跡の調査時点での論理構成を確認しておく。/ 〔※略〕」
▼「鳥羽源藏と宮沢賢治」(18)〔2007年3月1日〕|コラム気仙坂|東海新報 http://www.tohkaishimpo.com/scripts/column2.cgi?pflg=1&page=135&snen=2000&smon=01&sday=01&enen=2012&emon=12&eday=31&fname=&ftitle=
▽「2007年3月1日付」「気仙地方など岩手県内の貝塚の重要性について、初めて実の考古学会に紹介したのも、鳥羽源藏(一八七二〜一九四六)であった。鋭い観察力、洞察力のあった源藏は、発信力も備わっていた。/ 明治二十九年(一八九六)、源藏が二十四歳の時、一番最初に発表した「陸前国気仙郡ノ石器時代遺跡」の論文が、権威ある東京人類学会雑誌に掲載された。論文の内容は、源藏が気仙郡小友村〔現・陸前高田市小友町〕の生家の近くにある雲南遺跡(沢辺)と門前貝塚を自ら調査し、雲南遺跡から土器の破片、門前貝塚からアサリ、カキなどの貝殻が、多数出土していることを報告したもの。気仙の遺跡の存在を紹介し、専門家による実地調査を待ち望んでいる―と発掘調査の必要性を呼びかけた。県内の貝塚を初めて中央の学会に報告したもので、本県の考古学史上、重要な論文として位置づけられている。/ 源藏がこの論文を発表した明治二十九年〔1896年〕は、のちに交流することになる宮沢賢治(一八九六〜一九三三)が花巻に生まれている。/ 最初の論文が発表されて三年後の明治三十二年(一八九九)、源藏の呼びかけに応じて、東京帝国大学の八木奥三郎が貝塚の調査に気仙地方を訪れた。源藏は、八木の調査に協力し、門前や獺沢、猪川の長谷堂の貝塚などを案内した。その時の発掘で、獺沢から良好なシカの骨角器や日本で初めて貝塚からノウサギの骨が出土した。八木はこの調査結果をまとめ、門前、獺沢の貝塚はじめ、県内三十八の遺跡を記載した「東北地方に於ける人類学的旅行」(明治三十三年〔1900年〕)と題する論文を発表した。/ 源藏もまた、八木の影響を受け、その後も遺跡調査を続け、資料を蓄積していった。そして二十八歳の時、「陸前国気仙郡小友村発見の遺物に就いて」(明治三十三年)の論文を発表する。源藏や八木の論文により、気仙地方の貝塚が中央の研究者に注目されるようになったという。/ このあと気仙地方で発掘調査が相次ぐ。明治三十九年〔1906年〕、高島多米治(太古遺跡調査会)が小友村地内で実施し、明治四十年〔1907年〕と四十一年〔1908年〕には野中完一(銅鉈坊陳列館)が獺沢と中沢浜を調査。中沢浜貝塚から二十三体の人骨が発見された。この調査にも源藏がかかわった可能性が高く、当時、貝塚からの人骨発見は国内合わせても二十体を数える程度で、一カ所の遺跡から二十三体もの人骨発見は画期的なこと。さらに、生まれて間もない子どもの骨を納めた土器も日本で初めて出土し、縄文時代に墓域が存在したことを示す貴重な発見となり、昭和九年〔1934年〕に国指定の史跡となった〔※仮指定は1925年〕。/ 続いて、大正八年〔1919年〕、考古学者として知られた東北帝国大学医学部の長谷部言人が、末崎の細浦上ノ山貝塚を調査し、この時、源藏に貝塚から出土した貝類の種同定を依頼した。源藏は、暖かい海に生息する貝が含まれていることに気づき、「石器時代の気仙地方の気候を追想すれば現時よりも温暖なりし事を想像し得られる」と当時書いた源藏の論文は今なお研究者の注目するところとなっている。」
▽「〔鳥羽〕源藏は、〔岩手〕県内で最初に洞窟遺跡の調査も行っている。大正十一年〔1922年〕七月、場所は蛇王洞窟〔蔵王洞窟〕(現 住田町工有住〔※上有住の誤植〕)。岩手師範学校に勤務し始めたころ、源藏はほ乳類の骨が洞から出土していることを東北大学の松本彦七郎に情報提供し、一緒に発掘調査した。/ 洞窟遺跡の調査としては県内で最初、全国的にも早い時期に行われた調査で、蛇王洞窟からこの時、約七千年前の縄文時代早期の女性の人骨が発見された。考古学に詳しい陸前高田市海と貝のミュージアムの熊谷賢主任学芸員は、「蛇王洞窟からの人骨の出土は、当時の人類学者からも注目された。現在でも県内最古の人骨で、重要な発見でした」。これも源藏の功績の一つといえる。」
▽「この蛇王洞窟の調査の翌年大正十二年〔1923年〕、源藏は岩手県史蹟名勝天然記念物調査会〔岩手県史蹟名勝天然紀念物調査会〕委員に委嘱された。源藏は師範学校の教壇に立ちながら、県内の史跡、天然記念物の保存のため調査に奔走した。このころ、交流のあった宮沢賢治は、農民の肥料相談に応ずる生活の中で病が悪化し、昭和八年〔1933年〕に死去した。賢治の死去から三年後の昭和十一年〔1936年〕、源藏は調査員の功績が顕著として文部大臣が会長を務める史蹟天然記念物保存協会〔史蹟名勝天然紀念物保存協会〕から表彰状と銀杯を贈られている。(ゆ)」
▽参考:
▼7 天然記念物指定の歩み|日本列島に生きる未来への遺産 ―天然記念物の野生動物―|国立科学博物館 https://www.kahaku.go.jp/special/past/nihon/infomation/chapter_7.htm
▽「■7 天然記念物指定の歩み/ 郷土の自然を守ろうという動きは産業革命の前後にヨーロッパから起こり、天然記念物、自然保護といった言葉や思想が生まれた。日本も、明治の近代化とともに、その必要性が生じた。工業化や農地の開墾、さらに、国産の村田銃の生産がはじまり狩猟による鳥獣の減少が進む。このような事態を憂慮し、徳川頼倫侯らにより史蹟名勝天然紀念物保存協会が創立され、建議案が貴族院に発議されたのが明治44(1911)年である。同協会は講演会等の啓蒙活動をおこなうとともに、大正3(1914)年より会報『史蹟名勝天然紀念物』の刊行を開始した。/ 〔※略〕 さて、天然記念物を国が指定する根拠となる法律、史蹟名勝天然紀念物保存法が議会に上程され、公布にいたったのが大正8(1919)年である。この郷土愛護と自然保護の思想は昭和25(1950)年に制定された文化財保護法に引き継がれ、翌年、天然記念物の指定基準が告示された。動物に関する指定基準は次の通りである。 〔※略〕」
▼CiNii 論文 - 〔研究ノート〕我が国における文化財保護の史的展開 : とくに戦前における考察〔枝川明敬, 2002〕 http://ci.nii.ac.jp/naid/110001033243
▼「史跡名勝天然記念物」と昭和初期の日本の自然保護運動〔目代邦康, 1999〕: 東京学芸大学リポジトリ http://hdl.handle.net/2309/38615
▼史蹟名勝天然紀念物保存法 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%B9%9F%E5%90%8D%E5%8B%9D%E5%A4%A9%E7%84%B6%E7%B4%80%E5%BF%B5%E7%89%A9%E4%BF%9D%E5%AD%98%E6%B3%95
▼出張所ニュース 2006|国土交通省 三陸国道事務所 大船渡維持出張所ホームページ http://www.thr.mlit.go.jp/sanriku/10_iji/ofunato/news_2006.html
▽「■2006年8月10日(金)/『道の日』記念行事 高田遠野街道 〜大畑峠を往く〜」「今年で13回目を迎える『道の日』記念行事。今回は、住田町社会体育館(住田町世田米)からスタートし住田町役場上有住支所(住田町上有住)までの道のり11kmを歩きました!!」「〔※写真〕(1)8:30 開会行事: 関係者含む約330名が参加/ 〔※略〕/(4)9:00 浄福寺(1km地点): 多田俊一住職より説明。みんな真剣に聞いています/ (5)10:00 大畑峠頂上部(6km地点):〔※略〕/ (6)11:15 八幡宮(8km地点): 戦時中は「戦の神」として参拝者が多かったそうです/ 〔※略〕/ (8)12:00 葉山めがねばし(10km地点): 期間限定でライトアップされています/ (9)弁慶の足跡: 見えるかな? 白くくぼんでいるのがそうです/ (10)12:30 蔵王洞窟跡: 松田英三氏より説明。縄文早期より晩期にかけて住居として利用されていたそうです」 ※写真あり
▽参考:
▼PDF:「五葉山の魅力」リレーエッセイ57(松田英三、東海新報 2009年10月3日)|千葉修悦ホームページ http://ww91.tiki.ne.jp/~narachan/essay/esaay057.pdf
▽「【執筆者プロフィール】〔松田英三〕 一九三一年〔1931年(昭和6年)〕生まれ、住田町上有住在住。元教員。今年〔2009年〕三月まで上有住地区公民館長、上有住小学校区コミュニティ推進協議会長を務め、地域の教育振興運動、地域おこしと取り組んだ。」
▽▽湧清水洞窟/湧清水洞穴(住田町世田米):
▼湧清水洞窟遺跡〔2011年06月22日撮影〕 - 日本沿岸旅行記 http://www.jpcoast.com/entry/8466.html
▽〔※現地案内板写真:〕「湧清水洞窟遺跡(ワキシミズドウクツイセキ)/ 先住民族縄文人たちが数千年前の縄文早期より晩期にかけての住居として使用していた横穴式洞窟遺跡として注目されている。/ 昭和46年〔1971年〕8月土地の若者たちが洞窟内で人骨を発見、同年9月新潟大学森本〔岩太郎〕教授等によって本格的調査が開始され、洞窟入口より60メートル奥の深さ20メートルの落ち込みから28体分の人骨を発掘した。/ 土砂の堆積が厚く人骨が散乱して泥の中に埋まっていた。/ 先住民族たちの墓場であったのか、単に死者を捨て移動して去って行ったのかは不明である。/ 人骨は犬歯を抜かれており当時の風習である大人の仲間入りの儀式があったと考察された。/ 同遺跡は、現在地より約3粁〔キロメートル〕上城〔かみじょう。住田町世田米上城〕方面に向い湧清水沢を約500メートル登った水道取水口の上方にある。/ 住田町」 ※誤植は写真により改めた
▽「編集:2011年07月20日 15:31:42 | 撮影:2011年06月22日 09:44:35」
▼第4回東北遠征・湧清水洞、内間木洞〔2008-05-06〕:Spiderの洞窟日記II http://spidersline.blog.so-net.ne.jp/2011-09-20-11
▽「連休を利用して岩手県の洞窟に遠征してきました。/ 〔2008年〕5月1日/ 飛行機で仙台まで行き、レンタカーで住田町まで走り「湧清水洞」の地主さんに挨拶して洞口を確認しました。その後少し時間があったので、近くの観光洞の「滝観洞」を見てきました。奥にある「天の岩戸の滝」は迫力ですが、これは登られており上部の空間も延びているとの事です。夜は遠野でジンギスカン食べて泊まりました。/ 5月2日 湧清水洞 500m+/ 湧清水洞は住田町世田米近くの中沢川上流にある吐出型の鍾乳洞〔吐出洞とも。地下水が洞口から流れ出るタイプ〕で、〔縄文時代の〕人骨が発見されて遺跡にも指定されています。未測量の部分も多いということで探検してみました。/ 洞口より100m位から水流が出てきて二次生成物の狭い空間を進みますが、そのうち激しく蛇行したトレンチ構造となり、冷たい水流沿いを這って進むことが多くなります。断面が鍵穴状の洞窟の上部へも登りながら奥への通路を探りますが、上層下層とも狭洞となって進めなくなりました。ここの洞窟生成物は真っ白でとても綺麗で、めずらしい鍾乳石も沢山見られました。〔同行した〕cavemanはウエットで私はドライで水対策して行きましたが、水の冷たさに痺れました。出洞後は春の陽気で暖まりました。/ 〔※略〕」
▼湧清水洞窟/湧清水洞穴/上城:遺跡ウォーカー http://www.isekiwalker.com/iseki/89104/
→▼湧清水洞窟/湧清水洞穴/上城:遺跡ウォーカー〔2007.6.30記録〕|Internet Archive https://web.archive.org/web/20070630005114/http://www.isekiwalker.com/iseki/89104/
▽「■湧清水洞窟/湧清水洞穴/上城/ ふりがな: わきしみず/かみじょう/ ■時代: 〔空欄〕/ ■所在地: 岩手県気仙郡住田町世田米上城144-1/ 緯度経度: 〔空欄〕」
▽「■遺構概要: 洞窟。 県調報106 石灰岩洞窟-縄文(早期+前期+後期)+弥生+中世-墓か。標高250m/比高差50m。 <立地>沢の源とその上に三つの洞窟が重なるように開口/一番上が遺跡の入り口。ビニールハウス対岸の丸木橋から1km奥。 <規模>幅5/奥500/高2m。 <残存状況>一部破壊(調査と観光による)。/ ■遺物概要: 県調報106 縄文(早期+前期初頭+後期中葉)-縄文土器(蛇王洞II式+赤御堂式ほか)/ 弥生-弥生土器(赤穴式)/ 時代不詳-石器(石鏃+石斧+掻器+凹石)+骨角器(骨製針+貝輪)+銭貨(洪武通宝)+人骨片。/ ■発掘概要: 1971年-草間俊一・小片 保ほか調査、調査年不明-小田島禄郎」
▽「■その他概要: LCa3/ON1489/PN1263/ <全国遺跡地図番号>43-23。<25000分の1地形図>NJ-54-14-6-3、世田米。 ○大場磐雄「本邦上代の洞穴遺跡(二)東北」『史前学雑誌』6-3(1934)、○草間俊一・吉田義昭『考古学提要』(1953)、○小岩末治「上古篇」『岩手県史』1(1961)、○草間俊一・小片 保ほか『岩手県住田町湧清水洞穴遺跡』(1973)、○根来功範『続住田町風土記』(1971)、○同『改訂住田の歴史』(1974)、○同『住田町風土記』3(1975)、○同『住田町風土記』6(1983)、○高橋信雄ほか『昭和58年度第2回企画展”石灰岩”展示図録』(1983)、○『住田町史』1(1997)、○〔岩手〕県教委『岩手の洞穴遺跡』(岩手県文化財調査報告書106、2000)」
▽▽山脈地遺跡(住田町)
▼考古学 (発掘現地説明会を見てきました)|Machafuguのホームページ http://www.machafugu.com/koukogaku_2010.html
▽「〔2010年〕10月09日/ ■山脈地遺跡 岩手県住田町/ 県道の整備工事に伴い発掘調査の行われている縄文時代早期から晩期にかけての集落です。大木5式期頃の大型住居と小型の住居が旧河道上部に堆積した十和田火山灰の中から検出されました。胆沢ダム関連で調査され重要性から史跡指定された大清水上遺跡〔岩手県奥州市胆沢区〕でも見られたものと同じかも? また、住居の下の堆積からは早期の丸底の土器も発見されています。この遺跡は早期の標識遺跡 蛇王洞洞穴遺跡〔蔵王洞窟遺跡〕のすぐ近くです。」
▽参考:
▼現地説明会・公開のご案内:山脈地(さんみゃくち)遺跡(現地説明会)|(財)岩手県文化振興事業団 埋蔵文化財センター/いわて・遺跡めぐり http://www.echna.ne.jp/~imaibun/chousa/setumei_102sanmyakuti.html
▽「現地説明会・公開のご案内/ ■遺跡の名前: 山脈地(さんみゃくち)遺跡(現地説明会)/ ■日時: 平成22年〔2010年〕10月9日(土)13時30分~15時00分/ ■場所: 気仙郡住田町上有住字山脈地17-8番地/ ■概要: ・遺構 縄文時代前期の竪穴住居跡2棟、土坑3基など/ ・遺物 縄文土器 大コンテナ65箱、石器 中コンテナ10箱、石製品など/ ■連絡先: 山脈地遺跡発掘調査事務所 090-9538-****/ 埋文センター〔埋蔵文化財センター〕調査課 019-638-9001 (平日のみ。8:30~17:00)」「→こちら http://www.echna.ne.jp/~imaibun/chousa/chousa_238sanmyakuti.html をクリックしてください。現地の地図などが掲載されています。/ *どなたでも参加いただけます。 *申し込みは不要です。直接、現地においでください。 *雨天でも実施いたしますが、荒天の際は念のため上記連絡先にお問い合せください。」
▼(財)岩手県文化振興事業団 埋蔵文化財センター/いわて・遺跡めぐり|《現地説明会》「山脈地遺跡」 http://www.echna.ne.jp/~imaibun/chousa/chousa_238sanmyakuti.html
→▼PDF:「山脈地遺跡 -一般県道釜石住田線整備事業に伴う緊急発掘調査- 現地説明会資料(平成22年10月9日)」 http://www.echna.ne.jp/~imaibun/gensetsu/sanmyakuchi.pdf
▽「《現地説明会》 「山脈地遺跡」/ 〔2010年〕10月9日(土)に現地説明会が行われました。説明会資料は下記からダウンロードできます。 →山脈地遺跡現地説明会資料(PDFファイル:844KB)」「〔写真:〕75名ものみなさまに参加して頂きました。ありがとうございました。/ 〔写真:〕〔現地説明会〕当日は、貝殻文の体験コーナーや、めずらしい土器もたくさん展示されました。」
▽「《いわて調査情報》(平成22年〔2010年〕10月22日現在)/ ■「山脈地(さんみゃくち)遺跡」/ ■所在地: 岩手県気仙郡住田町上有住字山脈地7-7ほか/ ■事務所: 0192-48-****/ ■調査期間: 平成22年7月1日〜8月31日(予定)/ ■時代: 縄文時代(早期〜晩期)/ ■検出遺構: 竪穴住居・フラスコ土坑/ ■出土遺物: 縄文時代:土器・石器」「〔写真:〕縄文時代晩期の竪穴住居も存在することがわかりました。土器を埋めた炉の様子です。(平成22年10月22日現在)/ 〔写真:〕縄文時代早期の貝殻文土器がみつかっています。(平成22年9月2日現在)/ 〔写真:〕縄文時代前期の土器などがたくさんみつかっています。(平成22年7月30日現在)」
▽▽「鋒形石器」(住田町上有住「二度成木遺跡」出土):
▼國學院大學学術フロンティア/地域考古学史研究と写真資料(熊谷〔常正〕) http://www2.kokugakuin.ac.jp/frontier/publication/sympo00/kumagai.html
▽「地域考古学史研究と写真資料 ―岩手県博蔵〔岩手県立博物館蔵〕小田島禄郎コレクションの事例を中心に―/ 熊谷常正(盛岡大学文学部)」
▽「〔※略〕/ ■柴田常恵の史跡調査/ 小田島〔禄郎〕は若い頃から歴史・郷土史に興味を抱いていたが、本格的に考古学活動を開始するのは岩手郡一方井小学校(現;岩手町)に校長として赴任した大正9年(1920)頃からである。大正12(1923)年7月には当時内務省考査員として史跡指定に関わっていた柴田常恵(1877〜1954)を案内、一方井地内の古代遺跡を調査している。〔同年〕8月に小田島は岩手県史跡名勝天然記念物調査会委員〔岩手県史蹟名勝天然紀念物調査会委員〕に任命されている。また9月には、京都大学・梅原末治の一方井浮島古墳調査に協力している。しかし、その後小学校で教員との間に生じた事件のため、翌年〔1924年〕4月気仙郡広田村〔現;陸前高田市広田町〕の小学校へ異動を命じられた。/ しかし、古くから縄文貝塚の集中地域として知られていた気仙郡は、小田島にとってむしろ興味あるフィールドだったに違いない。彼は岩手郡時代より積極的な活動を展開する。大正13年(1924)8月、柴田常恵の気仙郡と宮古地方の史跡踏査に際しては、対象遺跡の選考や管内関係資料見学の手配など、柴田の旅程は小田島が計画したらしい。この踏査のあらましは、小田島の「気仙の史跡踏査」〔岩手日報連載〕や当時岩手師範学校教諭で小田島と同じ史跡調査会委員であった鳥羽源蔵(1872〜1946)の「史前の日本を偲ぶ貝塚の遺物」など、地元紙への寄稿記事によって窺える。/ この柴田の踏査によって、翌年〔1925年〕、気仙郡内の中沢浜(現;陸前高田市)・蛸の浦・下船渡・関谷洞穴(現;大船渡市)の三貝塚一洞穴が仮指定され、昭和9年(1934)にはこの三貝塚が国史跡の指定を受けている。」
▽「さて、柴田〔常恵〕はこの出張〔1924年〕の折り、購入したばかりの写真機を持参した。また、花巻から遠野まで軽便鉄道を、遠野から峠を越えて気仙郡へは自動車を利用している。最初の調査地気仙郡上有住(現;住田町)では、松本彦七郎らが〔1922年に〕発掘した蛇王(蔵王)洞穴やその付近にあるという磨崖仏を巡り、小学校〔※上有住小学校か?〕で遺物類を見学した。その中に特異な形をした石器があった。小田島執筆の寄稿記事には、(小学校に到着した柴田は)〔上有住二度成木沢〔ふたなぎさわ〕より出土の〕「緑泥片岩製の鋒形石器に目を止めた。一尺七寸の大石器を手にして、どうも接触が疑われる、と首をひねる。何しろ研究物だと繰り返して見て居られた」とある。鋒形石器には「ほうけいせっき」とルビがが振られているが、柴田は鋒の字に「ほこ」のイメージを与えていたのだろう。」 ※小田島禄郎による「寄稿記事」は、おそらく「気仙の史蹟踏査」(「岩手日報」1924年9月-12月連載)を指す
▽「ところで國學院大學では、大場磐雄博士等の尽力により柴田の没後、彼のフィールドノートや写真類を購入し、考古学研究室に保存している。その柴田のノートの中に、おそらくこの時、この石器と思われるスケッチがあり、また資料写真も残っていた。/ スケッチに添えられたメモには「陸前気仙郡上有住村字二度成木沢ヨリ出土」「寄贈者 上有住村 紺野重兵衛・熊谷重内」と記され、寸法を表す数字も書き込まれている。小田島の記事では長さ一尺七寸とするが柴田のメモには「10.6」という数字があり、そのほかの数値記載の状況からして、小田島の単位が誤りで一尺七分が正しい数値と思われる。柴田メモの数値を信じて10.6寸とすると、全長32.1cmになる。/ 写真やスケッチから見る限り、全体の形態は杓文字で先端部に磨製石斧に似た半楕円状の刃部作り出され、その下にその二倍ほどの長さで扁平な柄部が付いている。柄部側縁には剥離痕跡があるが、刃部は両刃に磨き出されているらしい。/ 柴田が注目したように、このような形態の石器は類例がほとんど知られていなかった。昭和62年(1987)、秋田県大館市上ノ山I遺跡で縄文時代前期円筒下層式の住居が密集した地点から、基部が重なり埋納されたような状況で〔同形態の鋒形石器が〕発見された。柴田・小田島らの注目から60年あまり後の発掘調査による出土だった。類例が同県鹿角市八幡平字永田瀬根から出土していたことも判明した。/ 上ノ山I遺跡や八幡平例は縄文前期に属する〔遺跡〕と考えられており、とりわけ上ノ山I遺跡は、多くの住居跡や貯蔵穴が検出されている拠点的な大規模集落と見なされている。一方、住田町上有住二度成木沢周辺は、気仙川上流の狭い沢に面した崖錐〔がいすい〕起源の小規模な台地があるだけで、遺跡も〔縄文時代〕後晩期はあるものの確実な前期集落と把握できるようなところは確認されていない。鋒形石器の石材は緑泥片岩というより緑色凝灰岩と思われる。この石材は、奥羽山脈西側で縄文前期の石器・石製品に用いられることが多く、秋田県北部で二点の出土を評価するなら、〔外部からの〕搬入品の可能性が高い資料といえよう。」 ※二度成木遺跡出土鋒形石器の現在の所在、不詳。
▽参考:
▼鋒形石器(上ノ山I遺跡出土) | 秋田県遺跡地図情報 http://common.pref.akita.lg.jp/heritage-map/ruins/detail.html?ruins_id=5411
▽「■遺跡情報詳細: 鋒形石器(上ノ山I遺跡出土)」「■指定の有無: 調査完了遺跡(青)/ ■遺跡等名: 鋒形石器(上ノ山I遺跡出土)/ ■地図番号: 大館市役所/ 市町村: 大館市/ ■所在地: 〔秋田県〕大館市釈迦内字獅子ヶ森1、大館郷土博物館/ ■種別: 秋田県指定有形文化財(考古資料)/ ■現況: / ■土地所有者: / ■遺構・遺物: 2点/ ■所蔵者: 大館市/ ■備考: / ■年代: 」
▼鋒形石器(ホウケイセッキ) | 大館郷土博物館 http://odate-city.jp/museum/archives/artifact/pa000001
▽「鋒形石器(ホウケイセッキ)」「■説明: 遺跡名: 山館上ノ山/ 縄文時代前期中葉、BC3000年/ 〔写真:〕(上) 長さ34.0cm、刃部長さ9.0cm、刃部最大幅11.4cm 重量1311g/ 〔写真:〕(下) 長さ37.6cm、刃部長さ9.6cm、刃部最大幅13.2cm 重量1954g/ 秋田県指定文化財」
▼国道103号大館南バイパス建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書1 - 秋田県遺跡リポジトリ http://rar.akita.nii.ac.jp/metadata/127
→▼PDF:『秋田県文化財調査報告書第173集/ 国道103号大館南バイパス建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査報告書I ―上ノ山I遺跡・上ノ山II遺跡―』秋田県教育委員会(1988年3月) http://rar.akita.nii.ac.jp/file/127/20130206140446/akbunkazai173.pdf
▽p.163; 「上ノ山I遺跡」「第2章 調査の記録/ 第2節 検出遺構と遺物/ 2 下位面検出の遺構と遺物/ 〔※略〕/ (2)第IV層~第VIII層検出の遺物と遺構/ 〔※略〕/ (3)各層出土の遺物(第133図~〔※略〕)/ 〔※略〕/ 石器では、埋納された可能性が強いが、MF50の第VI層から鋒形石器2点(第152図〔p.184〕)が出土している。」
▽p.192; 「上ノ山I遺跡」「第3章 まとめ/ 〔※略〕/ ■遺物について/ 〔※略〕/ 〔上ノ山I遺跡の〕MF50グリッド第VI層中から出土した鋒形石器については、岩手県気仙郡住田町上有住二度成木沢所在の二度成木(ふたなぎ)遺跡に出土例がある。それを柴田常恵が大正13年〔1924年〕の史跡指定調査の際にスケッチしたものが残されている。それによると、全長10寸6分、約32cm余りと推定される。大正13年〔1924年〕の史跡指定調査の際に柴田常恵を案内した小田島禄郎(史跡調査会委員)の執筆による新聞記事(註1)には、『緑泥片岩製の鋒形石器』とある。」「・註1 「気仙の史蹟踏査」『岩手日報』1924(大正13)年9月20日~12月1日/ ・参考文献 熊谷常正「1920年代の文化財保護運動 〔-岩手県における史跡指定をめぐって-〕」『岩手県立博物館研究報告』第3号 1985年(昭和60年)」
▼岩手県立博物館研究報告 第3号(1985):研究資料・関連書籍のご案内|岩手県立博物館 http://www5.pref.iwate.jp/~hp0910/kenkyu/index.html#houkoku003
▼山館上ノ山 | 秋田県遺跡地図情報 http://common.pref.akita.lg.jp/heritage-map/ruins/detail.html?ruins_id=764
▽「■指定の有無: 指定なし(赤)/ ■遺跡等名: 山館上ノ山(やまだてかみのやま)/ ■地図番号: 204-4-71/ ■市町村: 大館市/ ■所在地: 〔秋田県〕大館市山館字上ノ山/ ■種別: 集落跡/ ■現況: 道路、畑地、浄水場/ ■土地所有者: 公有、民有/ ■遺構・遺物: 【縄文時代】竪穴住居跡・竪穴状遺構・焼土遺構・土坑・フラスコ状ピット・土器埋設遺構・捨て場、縄文土器(〔※略〕)・石器(石鏃・石槍・石匙・石錐・石箆・トランシェ様石器・異形石器・磨製石斧・打製石斧・礫器・磨石・石皿・凹石・石槍・台石・半円状扁平磨製石器・石錘)・土製品(〔※略〕)・石製品(〔※略〕)、【弥生時代】〔※略〕、【平安時代】〔※略〕/ ■所蔵者: 大館市教委/ ■備考: ※上ノ山I遺跡・上ノ山II遺跡を包括する。〔文献:〕『山館上ノ山遺跡調査報告書』大館市教委 1975、『大館市史I』、『国道103号大館南バイパス建設事業にかかる埋蔵文化財調査報告書Ⅰ ―上ノ山I・II遺跡―』秋田県教委173集 1988、『秋田県大館市遺跡詳細分布調査報告書』 大館市教委 1990、『国道103号道路改良事業に係る埋蔵文化財調査報告書II ―上ノ山II遺跡第2次調査―』秋田県教委193集 1990、『国道103号道路改良事業に係る埋蔵文化財調査報告書IV ―上ノ山I遺跡第2次調査―』秋田県教委211集 1991/ ■年代: 縄文時代、弥生時代、平安時代」
▼遺跡紹介|秋田県埋蔵文化財センター http://www.pref.akita.jp/gakusyu/maibun_hp/site.htm
▼鋒形石器(八幡平字根瀬出土)|鹿角市(秋田県) http://www.city.kazuno.akita.jp/koko/758.html
▽「■鋒形石器 1点/ 鋒形石器(八幡平字根瀬出土)/ 市指定有形文化財(考古資料)/ 指定日: 平成10年〔1998年〕4月15日/ 所在地: 〔秋田県鹿角市〕十和田大湯字万座13 (鹿角市出土文化財管理センター)/ 所有者: 鹿角市教育委員会」
▽「この鋒形石器は、〔秋田県〕鹿角市〔かづのし〕八幡平字根瀬より出土したものである。/ この種の石器の発見数は少なく、現在は、岩手県〔住田町〕二度成木沢遺跡(1点)、大館市上ノ山2遺跡(2点)及び本例の4例で、その出土地は東北地方北部に限定されている。/ 根瀬出土のこの石器は、出土状況がはっきりしないが、上ノ山2遺跡の例から縄文時代前期の祭祀に係る遺物と考えられる。/ 発見例が少ないこと、出土地が限定されること、祭祀に係る遺物である可能性が高いことから東北地方北部の縄文時代前期の精神文化を考える上で貴重な資料である。 (長さ:33.1cm 重さ:1,400g 材質:緑色凝灰岩)」 ※秋田県大館市の鋒形石器類例を「上ノ山2遺跡(上ノ山II遺跡)」からの出土としている。おそらく「上ノ山1遺跡(上ノ山I遺跡)」の誤り。
▽参考:小田島禄郎
▼岩手の遺跡を守った人たち -小田島禄郎を中心に- |催事情報| 公益財団法人 岩手県文化振興事業団 http://www.iwate-bunshin.jp/event/post-62.html
▽「■岩手の遺跡を守った人たち ―小田島禄郎を中心に―」「2009年7月18日 (土) 〜2009年8月30日 (日)/ 開館時間 9:30〜16:30(入館は16:00まで)/ 休館日 〔※略〕/ 岩手県立博物館/ 〔※略〕」
▽「岩手の考古学の礎を築いた先駆者の一人小田島禄郎は、30年以上にわたり多くの遺跡調査や国指定史跡に関わる保護活動に尽力しました。収集された文化財資料や書簡類は2万点を超え、現在「小田島コレクション」として〔岩手〕県立博物館に収められています。彼の足跡をたどりながら、保存された遺跡や収集資料を紹介します。/ ・小田島禄郎の紹介/ ・遺跡保存に関わる様々な人との交流/ ・気仙地方の史跡調査、県南地方の洞穴調査/ ・岩手県内外出土の優品(小田島コレクション)/ ・遺跡の保存活動と普及活動(国指定史跡などに関わる書簡類など)/ ・調査時に作成した図面類」
▼PDF:岩手県立博物館だより No.121(2009.6)pp.4-5:「岩手の遺跡を守った人たち -小田島禄郎を中心に-」 http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/tayori/121p4_5.pdf
▼國學院デジタルミュージアム|柴田常恵写真資料 http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/dbTop.do?class_name=col_fsj
▼國學院デジタルミュージアム|柴田常恵瓦拓本資料 http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/dbTop.do?class_name=col_sjk
▼松本彦七郎 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%BD%A6%E4%B8%83%E9%83%8E
▼人類学のすすめ: 日本の人類学者35.松本彦七郎(Hikoshichiro MATSUMOTO)[1887-1975]〔2012年9月23日〕 http://anthropology.blog.ocn.ne.jp/bioarchaeology/2012/09/hikoshichiro_ma.ht
▼人類学のすすめ: 日本の人類学者39.森本岩太郎(Iwataro MORIMOTO)[1928-2000]〔2012年10月14日〕 http://anthropology.blog.ocn.ne.jp/bioarchaeology/2012/10/iwataro_morimot.html
▽「森本岩太郎(Iwataro MORIMOTO)[1928-2000][平田和明(2001)「恩師・森本岩太郎先生を偲んで」『解剖学雑誌』第76巻第3号より改変して引用](以下、敬称略。)」 ※原論文未確認
▽「森本岩太郎は、1928年〔昭和3年〕6月5日に、長野県で生まれました。その後、松本中学校・松本高等学校を卒業後、1955年に信州大学医学部を卒業します。卒業後は、母校・信州大学医学部の解剖学教室助手に就任します。当時の解剖学教室には、京城帝国大学医学部出身の鈴木 誠[1914-1973]が、1951年から勤務していました。森本岩太郎は、その鈴木 誠から解剖学教室に勤務することを勧められたそうです。1961年には、信州大学医学部解剖学教室講師に昇任します。また、1962年には「日本人距骨ならびに踵骨におよぼす蹲踞位の影響」により、信州大学から医学博士号を取得しました。/ 1963年〔昭和38年〕、森本岩太郎は新潟大学医学部第1解剖学教室助教授に就任します。この解剖学教室は、かつて長谷部言人[1882-1969](元東京大学)・今村 豊[1896-1971](元三重大学)・池田次郎(元京都大学)等が在籍し、人類学研究を行っていました。当時の解剖学教室には、小片 保[1916-1980]が教授に就任しており、京都大学に転出した池田次郎の後任として移籍しています。この新潟大学時代は、小片 保と同様に、遺跡出土古人骨の研究やミイラ研究を行いました。/ 1972年、森本岩太郎は新設の聖マリアンナ医科大学第2解剖学教室主任教授に移籍しました。当時の助教授には、新潟大学歯学部第1口腔解剖学教室助教授の小片丘彦が就任しています。聖マリアンナ医科大学では、新潟大学時代と同様に、発掘古人骨の研究・日本ミイラの研究・エジプトミイラの研究を行いました。 また、1990年11月12日から同13日にかけて開催された、第44回日本人類学会・日本民族学会連合大会を大会会長として主催しています。/ 森本岩太郎は、1993年に聖マリアンナ医科大学を定年退職すると、日本赤十字看護大学に移籍し、1998年まで解剖学教育にあたっています。/ 森本岩太郎が書いた論文は膨大ですが、人類学分野の主なものは以下の通りです。また、多くの出土人骨の記載を各地の遺跡発掘報告書に記載しています。/ 〔※文献表略〕」
▽▽住田町の遺跡・洞窟・洞穴:
▼(公財)岩手県文化振興事業団 埋蔵文化財センター|いわて・遺跡めぐり http://www.echna.ne.jp/~imaibun/
→▼zipファイル(Word, Excel):岩手県発掘調査報告一覧〔2012/04/11〕|(公財)岩手県文化振興事業団 埋蔵文化財センター http://www.echna.ne.jp/~imaibun/itiran.zip
▽「■凡例: 1 本表は、岩手県教育委員会事務局生涯学習文化課が提供している「岩手県遺跡情報検索システム」に登載されている遺跡の調査歴と調査報告の集成を目的にしたものであるが、一部の遺跡については未登載の場合がある。/ 2 本表は、主に1945年以降に本調査が行われたものを取り上げた。また、試掘あるいは確認調査であっても遺構・遺物を掲載するなど、本報告に準ずると判断したものは登載した。さらに、一部については踏査報告や測量報告等であっても取り上げた。/ 3 本表は、発掘調査に関する報告およびそれに直接関連する論考や単行本に限定し、遺跡や遺構・遺物に関する論考などは取り上げていない。/ 4 1945年以降、2009年12月末までに刊行され確認できた調査報告書等を取り扱ったが、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センターの報告書については2010年2月刊行のものまで収録した。/ 5 遺跡所在地の市町村名は平成22年(2010)1月1日現在のものである。調査時の遺跡所在地は、いわゆる「平成の大合併」以前については合併直前の市町村名とした。〔※略〕/ 6 遺跡コードは「岩手県遺跡情報検索システム」に登載されている。/ 7 遺跡名などの旧字体は新字体に統一した。また、シリーズ名などは一部の漢数字をアラビア数字に変更している場合がある。/ 〔※略〕/ 11 報告書等は当センターが所蔵しているものを原則とし、所蔵の有無の項をもうけている。また、当センターは所蔵しないが岩手県立図書館にある場合は「県立図」と記載した。/ 12 本表は、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センターが岩手県教育委員会事務局生涯学習文化課から受託した平成21年度緊急雇用促進事業の埋蔵文化財保存活用事業の一環として行い、作成したものである。編集は当センター三浦謙一が担当した。/ 13 平成24年〔2012年〕4月6日更新。」
▽項目; 「■"通しNo","2010年市町村名","市町村毎No","調査時市町村名",遺跡コード,遺跡名,調査年,調査次数,報告書名・タイトル,報告書シリーズ名・集番 掲載誌,編・著者,発行者・発行所,発行年,あり,なし,備考」
▽「■712,住田町,1,住田町,MF13-1146,落合II,2007,,『平成19年度発掘調査報告書』,岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第524集,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,2008,○,,」「■713,住田町,2,住田町,MF13-1156,落合III,2007,,『平成19年度発掘調査報告書』,岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第524集,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,2008,○,,」
▽「■714,住田町,3,住田町,MF96-2121,蔵王洞穴,1964,,岩手県住田町蛇王洞洞穴,石器時代 第7号,芹沢長介・林 謙作,石器時代文化研究会,1965,○,,報告:蛇王洞洞穴」
▽「■715,住田町,4,住田町,MF96-2121,蔵王洞穴,1964,,岩手県蛇王洞洞穴,日本考古学協会洞穴遺跡調査特別委員会編 『日本の洞穴遺跡』,芹沢長介・林 謙作,平凡社,1967,○,,報告:蛇王洞洞穴」
▽「■716,住田町,5,住田町,MF96-2121,蔵王洞穴,1964,,岩手県気仙郡蛇王洞洞穴遺跡,日本考古学年報 17,芹沢長介,日本考古学協会,1969,○,,報告:蛇王洞洞穴」」 ※以上、No.714-716 蔵王洞窟の調査報告3点
▽「■717,住田町,6,住田町,MF96-2268,中和田,1999,,『中和田遺跡発掘調査報告書』,岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第355集,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,2001,○,,」「■718,住田町,7,住田町,NF02-2247,栗木鉄山跡,1993・1996〜1998,1〜4次,『栗木鉄山試掘調査報告書』,,住田町教育委員会,住田町教育委員会,1999,○,,試掘調査」「■719,住田町,8,住田町,NF07-0023,小松II,2000,,『小松II遺跡発掘調査報告書』,岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第392集,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,2002,○,,」「■720,住田町,9,住田町,NF07-0030,小松I,2000〜2002,,『小松I遺跡発掘調査報告書』,岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第433集,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,2004,○,,」「■721,住田町,10,住田町,NF07-0032,小松洞穴,1995〜1998,,『気仙郡住田町小松洞穴発掘調査報告書』,岩手県立博物館調査研究報告書 第16冊 ,日下和寿,岩手県立博物館,2000,○,,」「■722,住田町,11,住田町,NF14-0241,館,2001・2002,1・2次,『館遺跡発掘調査報告書』,岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第432集,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,2004,○,,」「■723,住田町,12,住田町,NF14-2005,里古屋,2003〜2005,,『里古屋遺跡発掘調査報告書』,岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第499集,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,2007,○,,」「■724,住田町,13,住田町,NF15-1399,川向,1990,,『川向遺跡発掘調査報告書』,岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第173集,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター,1992,○,,」
▽「■725,住田町,14,住田町,NF17-0013,湧清水洞穴,1971,,『湧清水洞穴遺跡』,,草間俊一・小片 保・森本岩太郎・及川 洵,住田町教育委員会,1973,○,,『住田町史 第1巻』、1997年。に抄録を収録。」 ※No.725 湧清水洞窟の調査報告1点
▽「■726,住田町,15,住田町,―,田谷らんとうしゃ,1992,,田谷らんとうしゃ遺跡確認調査概報,『住田町史 第1巻 自然・考古編』,及川 洵,住田町,1997,○,,不登載」
▼ケイビングジャーナル第37号|Caving Journal Online http://cj.dojin.com/backnumber/cj37/
▽「ケイビングジャーナル第37号/ 2009年12月発行」「■目次: ・スペレオニュース/ ・イベントカレンダー/ ・特集 洞窟の考古学 〜考古学の視点から洞窟を探る〜/ ・―洞窟の〔に〕おける考古学の魅力〔※PDFリンク〕/ ・―洞窟で土器や石器を見つけちゃった!場合/ ・―ガンガラーの谷と武芸洞遺跡の発掘/ ・―Column 大山水鏡洞で発見した縄文人/ ・―保存版!日本の洞窟・岩陰遺跡リスト〔※PDFリンク〕/ ・―さらに深く知るための文献リスト/ ・山口ケイビングクラブ第17回救助訓練会報告/ ・2009年5月内間木洞洞窟救助勉強会参加報告〔※PDFリンク〕/ ・ポーランドのケイビング事情〔※PDFリンク〕/ ・ポーランド・インフォメーション/ ・洞窟生物学入門 第2回/ ・日本の観光洞―29/ ・南仏プロヴァンスの洞窟7〔※PDFリンク〕/ ・洞窟書籍新刊紹介/ ・コウモリを襲う白い鼻症候群/ ・プロジェクトボード/ ・学会からのお知らせ/ ・編集部からのお知らせ」
→▼PDF:「保存版!日本の洞窟・岩陰遺跡リスト」(小野寺秀和) http://cj.dojin.com/image/2013/03/CJ37_cavelist.pdf
▽「〔※略〕/ 16 〔洞窟遺跡名:〕上城洞穴 〔所在地:〕住田町世田米 〔時代区分:〕不明/ 17 鬼丸洞穴 住田町世田米 不明/ 18 地櫃割洞穴 住田町上有住 縄文後期/ 19 小松洞穴 住田町上有住 縄文前〜晩期/ 20 蔵王洞窟〔蛇王洞洞穴〕 住田町上有住 縄文早期〜晩期/ 21 玉泉寺墓地裏洞穴 住田町上有住 縄文後期/ 22 菅岩洞穴 住田町上有住 不明/ 23 湧清水洞窟 住田町 縄文早期〜晩期他/ 24 御殿平洞穴 住田町 不明/ 〔※略〕」 ※住田町の洞窟遺跡として9洞窟を登載
▼住田町史 第1巻 | 主題書誌データベース | 国立国会図書館 http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000002610509.php
→▼住田町史〔住田町史 第1巻(自然・考古編)〕 住田町史編纂委員会 住田町 1997.3/1997.3|国立国会図書館 http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000002610509.html
▽「住田町史 第1巻(自然・考古編)」「第2編 考古/〔※略〕/ 第5章 縄文人の精神生活/〔※略〕/ 第3節 呪術用具/〔※略〕 4 鋒形石器」
▽「第8章 考古学上の報告書及び史料紹介/ 第1節 田谷らんとうしゃ遺跡確認調査概報 〔※略〕/ 第2節 陸前国気仙郡蛇王洞窟の石器時代遺跡/ 第3節 蛇王洞(蔵王洞)洞穴について/ 第4節 川向遺跡について 〔※略〕/ 第5節 湧清水洞穴遺跡調査報告書(抄) 〔※略〕/ ・住田町主要遺跡一覧/ ・写真図版/ ・主要遺跡分布図」
▼▼文献ノート:
○根来功範 『住田の遺跡』住田町教育委員会(1961)
○大船渡市立博物館 編 『気仙の遺跡II :陸前高田市・住田町の各遺跡の出土品』(1999)
○岩手県教育委員会 編 『岩手の洞穴遺跡 :岩手県文化財調査報告書 第106集』岩手県文化財愛護協会(2000)
○芹沢長介、林謙作 「岩手県蛇王洞洞穴」(1965)(『石器時代』No.7、石器時代文化研究会、pp. 1-15)
○芹沢長介、林謙作 「岩手県蛇王洞洞穴」(1967)(『日本の洞穴遺跡』平凡社、pp. 74-84)
▼蛇王洞縄文早期人骨の人類学的研究 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1993/105/5/105_5_293/_article/-char/ja/
○草間俊一、小片保、他 『岩手県住田町湧清水洞穴遺跡』住田町教育委員会(1973)
○岩手県立博物館 編 『気仙郡住田町小松洞穴発掘調査報告書 :岩手県立博物館調査研究報告書 第16冊』(2000)
○『小松II遺跡発掘調査報告書 :岩手県文化振興事業団埋蔵文化座調査報告書 第392集』(2002)
○『小松I遺跡発掘調査報告書 :岩手県文化振興事業団埋蔵文化座調査報告書 第433集』(2004)
○『梅の木沢遺跡発掘調査報告書 :岩手県文化振興事業団埋蔵文化座調査報告書 第460集』(2004)
○岡田廣吉 『栗木鉄山資料集』(1999)
○住田町教育委員会 『栗木鉄山試掘調査報告書』(1999)
▽▽その他:
▼子飼沢I・II遺跡発掘調査報告書〔2011年03月18日〕 - 全国遺跡報告総覧 http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/13029
*1:「Googleストリートビュー|蔵王洞窟遺跡(住田町上有住)」。国道340号沿い(北側)に蔵王洞穴、また「蔵王洞窟遺跡 Zao Cave Remains」の案内板があるのがわかる。この案内板は後掲の次のWebページに写真がある。 →▼蔵王洞窟〔2005.11.22〕|-norichin@web- http://www5a.biglobe.ne.jp/~norichin/5doukutu/list12/zao.htm
*2:「松田え〜ぞ〜先生」。元教員の松田英三 氏(1931-)を指すか。後掲の東海新報記事「執筆者プロフィール」参照。 →▼PDF:「五葉山の魅力」リレーエッセイ57(東海新報 2009年10月3日)|千葉修悦ホームページ http://ww91.tiki.ne.jp/~narachan/essay/esaay057.pdf